CHANG, Yu-Chiehのブログ

台湾出身、「石川カオリ」というペンネームを使って日本語で世界のことを伝いたい。

Naniwa-suji Line

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170316-00050111-yom-bus_all

(2017/3/18 09:00 updated) Our lovly Hankyu (well, we don't have any other choice) says, in 2030 they will open up a new station called "Ume-kita", which is the area of sky building. The new line will connect from Shin-Osaka (new station of Hankyu) → Juso(十三)to "Umekita" and then link to new line of JR West Japan, "Naniwa-Suji" Line(なにわ筋線)which is parallel to Subway (light-blue) Yotsuba-suji Line, (red) Mito-suji Line, (brown) Sakai-suji Line, (purple) Tanimachi Line, and (yellow) Imasato-suji Line(大阪市営地下鉄南北向)but is in the west side.
It claims that the time to KIX(関空)may be shorter for 30 min. but the price hasn't decided yet.
For most of my friends on Facebook, I don't think to take this shortcut is cheaper and more convenient for us since there is Hankyu pass to KIX.
However, for people who live in Hyogo or they to northwest of Toyonaka city, Osaka province, it may be a better choice, though.
Kindly remind, just as Hankyu Kyoto Line is linked to Subway (brown) Sakaisuji Line(大阪市営地下鉄堺筋線)once you cross Tenshinbashisuji-6-chome(天神橋筋六丁目, Ten-Roku), the price goes up since you have transferred into other transportation company.

www.sankei.com

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170317-00000005-asahi-soci

 

映画<海の彼方>ガイド

戦前、台湾は日本の植民地であり、つまり1895年から1945年までの間、台湾と日本は同じ大日本帝国でした。
同じ国ですから、台湾ー石垣島ー沖縄ー日本本島の間のあちこちで、フェリーによる「国内」移動が行われていました。
大日本帝国の一番南の島であった台湾は、「内地」つまり日本本島に住んでいた「日本人」のため、「南国」の農産品を生産し、ほぼ全て内地へと運んでいました。
そのうちの「鳳梨」(別称:パイナップル)は、「南国から」送られてくる果物の代表でした。
第二次世界大戦前、台湾中部出身の人たちが、政令をきっかけとして石垣島へ移住していました。
彼らは石垣島の「農業キセキ」(パイナップルと牛が農業生産に導入されたこと)にとって非常に重要な存在だったのですが、過去の歴史と当時の政治のせいで、彼らの日本国籍への帰化が認められる道は、私たちの想像以上にとっても難しいものでした。
実際には元々台湾人たちの国籍問題はどちらの国にあっても解消することが難しいのですが、台湾は元・植民地であり、また現在沖縄には米軍基地があるせいで(石垣島は沖縄県の一部です)、石垣島に住んでいる台湾人は、日本国籍を取得するために誰よりも頑張らなければなりませんでした。一方、石垣島には沖縄県一部のきっかけて(?石垣島は沖縄県やから)、1972年に沖縄県が米軍支配から「日本に戻った」際に、多くの台湾人たちは、「今の国籍(何国籍?中華民国)が失くなる、もしかしたら中国籍(中華人民共和国)になるかもしれない」と、国籍を失うことを防止するため、日本国籍へと帰化しました。

 

《八重山の台湾人》

この本は、八重山日々新聞社の松本さんが『八重山日々新聞』に投稿した記事を集めて出版したもので、八重山で生活する台灣移民者たちの姿を伝える作品です。同じ(?同じところ出身の移民)台湾から八重山へ移住した人たちが、なぜ八重山へ移住したのかという理由やそのきっかけ等について、忠実に記録されています。
このドキュメンタリー映画《海の彼端》は、この《八重山の台湾人》の追記のようなもので、《八重山の台湾人》に登場する玉木玉代おばあさん(石垣島への移民の一世)と、偶然《八重山の台湾人》を読んで家族の歴史を発見した三世である孫、玉木慎吾さんとの物語です。
簡単的に概要すると、《海の彼端》には、三世の慎吾さんが大人になった後、初めて台湾出身のおばあさんと交流して自己意識を再構築していくプロセスが描かれていました。
私自身は台湾出身、アイデンティティは「日本語育ち世代の三世」です。この文章の最後に、私の家族と玉木家の似ている点について説明します。《海の彼端》は、私にとって初めて、映画を観ながら最初から最後までずっと泣いてしまった映画です。その原因は、たぶん、私が自分のことを映画の慎吾さんに投影したからだと思います。

この映画のストーリーは、大きく二つの部分に分けられます。まずは玉代おばあさんが米寿を迎えること、そしてもう一つは、玉代おばあさんが死ぬ前にもう一度台湾へ親戚を訪ねることです。
ここからは、その二つの出来事について、それぞれ分けてご紹介していきます。

 

玉代おばあさんの米寿

玉代おばあさんが米寿のきっかけに、日本全国にバラバラに住んでいる玉木家が、久しぶり全員で石垣島に集まりました。
台湾人にとっての「家族」は、源頭(?起こり、来源、「水源」の源。)が同じ祖先の大家族であります。日本語の「家族」に対して過大化な意味です。また生きている曽祖父母や祖父母に住んでいる「お家」を中心に、重要な節日に(例えば、お正月や祖先の忌日など)、「全ての親戚」がこの「お家」に集まって、話したり、食事をしたりするのは今まで台湾で普通な日常生活です。日本にもこんな文化がありますけど、私自身理解した文化の違いにとって、玉木家はこちらの点についてもっと台湾系であると思います。
私見た字幕は中国語バージョンなんですが、日本語字幕にはどうやって翻訳するのが私は知らないけれど、映画にもちろん日本語で話す部分は中国語字幕付きけれど、玉木おばあさんがおっしゃった台湾語で字幕ないところでわかります。
今台湾人の若者世代が台湾語あんまり理解できない人数が多いです。(筆者自身ははたちまでおばさんと一緒に住んでいたので、台湾語で日常会話ができます)

ここで簡単的に紹介しますと、台湾には多言語社会であり、別々の「民族」の「母国語」が違う、かつ違う世代に生まれて「政府から制定した標準語」が違います。
例えば、台湾の日本統治時代に(特に1930後半から)「政権を持ち」政府が制定した標準語は日本語です。ただし、「管理者が見えないところ」例えば家に自分が一番慣れる「母国語」で話しては普通でしょ。第二次世界戦争終わって、日本政府の代わりに台湾に来た「中国国民党」が制定した「標準語」は中国語になって、70年間続く現在は日常生活にほとんど「標準語として中国語」で話して、他の「母国語」はどんどん「言語死」の道へ進んでいます。
この理由で、80歳代超えの人たちはだいたい日本語や台湾語で話しています。40〜80歳代の人たちは(誰と話す場合を考えて)中国語や台湾語で話します。そして若者たちは地域より、全体的に現在の標準語として中国語でしかない状態かもしれません。

この映画を観ますと、もし映画に出た「日本語、台湾語と中国語」この三つの言語が認識しないと、玉木おばさんが「誰とどうな言語で喋る?この言語を使う時にどうな内容を喋る?」ことが理解できません。

こちらはこの映画に非常な重要なポイントです。

もし日本語しか聴ける人の場合は、そのまま字幕を読んで映画を観たら、たぶん感じられる言語の壁は日本語しか育ち慎吾さんが初めておばさんと台湾に「戻った」時、台湾である「親戚」と話したい場合は翻訳アプリが必要でした。
翻訳アプリを使ったことがある人はたぶん「翻訳の精度」について翻訳した文をなかなかあってない、そして音声機能を使ったら違和感ある声調があることが「感じられる」でしょ。

 

もう一度台湾へ

一つのシーンは玉木家たちが「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の祭り踊りを観ました。
あの時慎吾さんが「ふるさとに帰ったおばあさんは今にも自分の国のことばを理解できない」と思いました。

実はあの時の玉木おばあさんは台湾語が一番めっちゃペラペラしていました。
証拠は玉木おばあさんが親族と会った時です。玉木おばあさんは久しぶり台湾に住んでいる親族とドアの前に喋った内容は三分間くらい長さであり、こちらしか玉木おばあさんの本音を話してたシーンであります。

じゃなあ、なぜなら「九族文化村」テーマパックに玉木おばあさんさんはアナウンスや歌を聴いて理解できないだろう?
「九族文化村」という名前は、台湾である原住民族(=先住民族。ただし、私は台湾人だから必ず「原住民族」と呼ぶ。理由は「原」の意味はoriginal。「先」はこの前、今はそうではないという意味です。台湾の原住民諸族たち今までにも台湾で生きていますから、台湾で「先住民族と言ったらチャイニーズ中心に差別的なニュアンスがあります」)の中に9民族を中心なテーマパックです。(追記、現時点台湾で承認された原住民族は16種類があります)
色々な民族があったら、言語にもバラバラで、小さいからずっと部落に住んでいたしか原住民族のことばを話せる事態です。

台湾には多文化共生な社会であります。様々な言語で話せて、speaking languageだけ文字がない言語にもあります。
台湾である日本統治時代から、台湾の「国語」は日本語で設定して、戦敗後中国から「国民政府」が台湾に来てから「国語」は中国語になります。今までの「国語」にも中国語です。
玉木おばあさんが生まれた時代は台湾である日本統治時代です。国語は日本語でしたけれど、日清戦争始まる前に、日本語教育は強制的にではありません。
民間的に自分が慣れて言語で話せているのは普通でしたから、玉木おばあさんの母国語は「台湾語」と呼ばれ、中国語方言の一つ「閩南語」です。
玉木家は戦敗後もう一度八重山に戻ってから、玉木おばあさんは現時点の「国語」としての中国語はもちろん理解できない状態です。

映画の話を戻って、あのシーンは玉木家「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の踊りを観ます。
テーマパックであるアナウンスは「国語」としての中国語であり、パフォーマンスは原住民族の言語で唄います、もちろん台湾語と日本語しか話せる玉木おばあさんは聴いても全く理解できないです。

 

終わりに

なぜなら私と慎吾さん似てますと、
私は二十歳までにずっとおばあさんと住んでいて、おばあさんが育ちました。
うちのおばあさんは「日本語世代」と呼ばれ、おばあさんは日常会話レベルの日本語を聴いて理解できますし毎日ラジオを聴いた歌は日本語で演歌と台湾語しかないです。
うちの家族は台北である台北人なら必ず知ってる昭和風日本食堂を運営しています。
私初めて学んだ言語は台湾語です。
でも幼稚園に入ってから私以外の人たちはすべて「国語」を話して、あの時から「国語」は私の母国語になりました。
台湾語を使えるチャンスは家に帰って、おばあさんと話すしたありませんでした。
私とっての「台湾語」は中国語方言の「閩南語」かつ日本語の単語でした。
日本統治時代前に台湾でないモノはそのまま日本語の発音で呼びます。
そして、うちはもっとレベルアップして、「いただきます」や「おやすみ」などにもそのまま「私の台湾語」になりました。
小学二年生から六年生まで、私はおばあさんと一緒に寝っていました。
あの時毎晩は私の日本語教室でした。簡単な単語と童謡なとしかなかったけど、毎日演歌を聞くのは事実です。
偶に知りたい日本語単語があって、おばあさんは答えないケースが多いでした。
理由は私の妹は「国語」のみ話せますので、おばあさんの「中国語教室」が始まりました。
ということで、おばあさんの頭の中に台湾語、日本語と中国語を混ぜていて、あの頃から台湾語でおばあさんに日本語を聞いたいと言っても、もらった返事は中国語になりました。

日本語は私の「第二外国語」でしたが(第一はもちろん英語です)、私にとって日本語は「外国語」ではありません。
私のおばあさんの言語でした。
おばあさんがトントン忘れていた言語でした。

 

海の彼方|OAFF2017|特別招待作品部門

Formosan!「台湾」という島で暮らし(2/3)

yuchieh.hatenablog.com

 

台湾には大日本帝国最初の植民地であった。

中国清朝政府は台湾に対して態度が一瞬に変わったきっかけは1874年である牡丹社事件(こちらは清朝側の言い方。日本側は台湾出兵征台の役、もしくは台湾事件で認識しています)

私の理解は、あの時の沖縄は日本薩摩による支配して、中国清朝が朝貢関係の属国としてお互い保護する琉球王国でした。

宮古島の人たちが首里に行って年貢を輸送した後、帰途になんが暴風で遭難して台湾南部に漂着しました。でもなかなか宮古島の人たちと台湾の原住民パイワン族と言語通じないし、色々あった結局、54名遭難者たちは斬首されました。(日本語で「宮古島島民遭難事件」と言います。)

宮古島の人たちが首里に行くのは琉球王国内部の話ですよね?

日本側は「我が国が保護している琉球王国の国民は(言語通じない理由で)「外国人」が殺されましたから」、そして、あの中国清朝政府は「生番」は「化外之民」であると言ってから日本側は「じゃ、台湾へ出兵しよう!」の思いがあった……

この「台湾出兵」(台湾なら「牡丹社事件」と言います)は日本軍が初めて海外派兵そうです。

もう一つ注目されるところは、琉球王国は中国清朝政府と「日本とお互い保護する」国から、なかなか日本側の方は琉球王国の保護者を気になっています。もし琉球王国は「お互い保護し」なら、中国清朝見守ている琉球王国の国民は中国清朝統治している台湾で殺されて、順番と言えば、日本政府行動する前に中国清朝もう何がやっていたにはおかしくないでしょうか。

なんが台湾と日本の関係は想像以上深いです……

 

そして、台湾は中国大陸「福建省台湾府」から「台湾省」にLEVEL UPしました。おめでとう!?

台湾は「省」になるだけ、特に祝賀が必要ないと思います。

最初の台湾「巡撫」(省長相当)劉銘傳さんはちょうど明治維新の中国バージョン「洋務運動」の推進者でした。そのきっかけに台湾でたくさんインフラ整備を始めました!(これからようやく始まります!!)

「消極」の逆には「積極」ですが、私は「これからようやく中国清朝政府が積極的に台湾を運営したい」と言いたくないです。

そうなに積極的ではなく、「自発的に」ではありませんでした。

劉銘傳さん以降の台湾巡撫さんは彼らような積極的なやる気がないし、実際に「台湾省」はただ十年間だけですよ。

 

1894年日清戰爭(台湾側は「甲午戰爭」と言います。First Sino-Japanese War)があって、次年<日清講和条約>、もしくは<下関条約>(台湾側は<馬關條約>と言います)より、台湾の主権は日本になりました。

正しく言いますと、「台湾と澎湖諸島など付属諸島嶼」です。現在「台湾」と言ったらの範囲は台湾本島だけではなく、澎湖諸島など付属諸島嶼にも「台湾」主権があるところです。この記事のテーマは<台湾という島で暮らし>ですから、この前あんまり他の島と書きませんでした。)

 

台湾は日本最初の植民地であってから、1895-1950ちょうど50年間に一番長い時間が支配した日本植民地でありました。

 

実は私、中国語で言ったらあんまり「植民」という単語を使わないです。

私はいつも「台湾である日本統治時代」と言って、「植民地」や「植民政府」などの単語は利用しないでも、言いたいことが他の方法で説明することが可能です。「中国語で」言ったらね!日本語で話したらなかなか難しいです。

理由の一つは、「植民地主義」(Colonialism)産業革命(Industrial Revolution)から第二次世界大戦までのあの時代に、社会の中である雰囲気ですよ。

強い欧米「列強」はこうやって、誰にも負けたくない、誰にももっと強くなりたい。

現在の社会でもそうなんですけど、現在の人たちは人権関する意識が高くなりますから、「植民地主義」(Colonialism)ということは、これからもう一度発生することはなかなかあり得ないと思います。

 

歴史はもう発生した物事です。時間がかかって、歴史にも自分のことを自分で話せる。

(台湾はそうなんですが、日本なら左翼と右翼二つのグループの勢力は強すぎて同じ事件が両方から聞いたら、全く違うものになりました……なんでやねん)

日本元植民地である台湾出身の私、現在の日本に言いたいのは

歴史はもう発生しましたから、今の私たちがもう発生した歴史事件を消滅できません。

「ですから、大事なのはすべてのこと伝いてください。すべての立場を一言一言で伝いてください。」

すべてのこときちんと伝ったら、最後の判断は個人に戻って、自分自身信じることを信じて、自分で評価します。

 ということです。

 

1895年、もちろん日本の「植民地」になる「事実」は信じたくない、そうなりたくない台湾人がいます。

当時の官僚と一部住民(特に地方の名望家たち)は台湾民主国という国を立って、日本政府と抵抗したいけど、まあまあ当時の官僚ですからね、官僚たちは死にたくないなので、必死に逃亡していました。

この国はただ5カ月間で終わりました。私はとって特に重要な意味はたぶん、今まで「THE ONLY ONE」これしかない台湾という名前を使って、国旗もありますし、私たちの国を立っていたかもしれません。

あの時本気で必死に日本政府と抵抗しているのは民間の人と「原住民族」たちと思います。

ただ、すべての人はそうではありません。

地元で住民と日本軍隊両方が衝突してみたくないから、平和のために日本政府を歓迎している地方の名望家にはあります。

 

日本統治時代の台湾は日本と同じ国でありました。

同じ国、国語にも同じ日本語ですけど、差別化があります。格差社会でした。(social stratification

内地(第二次大戦前,海外の植民地を「外地」と称したのに対して日本本国の土地)からの日本人人数はたぶん一番少しないけど、もちろんトップな社会階層である、続いては「漢人」たち、最後は「原住民族」でした。

 

一つの例は現代語で言ったらの「小学校」です。

日本人行ったのは「尋常小学校」でした。でも台湾人行ったのは「公学校」、「原住民族」行ったのは「蕃人公学校」でした。(その後日本語がネイティブ程度の台湾人は「尋常小学校」に入れますけど、日本語はそうなに上手いこともたちは少しないでした。)

その後政令を修正して、すべて「国民学校」と呼ばれましたが、元「尋常小学校」の小学校は日本人の比例は多い、元「公学校」に日本人にも行かない状態でした。

私は卒業した<台北西門小学校>は元「尋常小学校」でした。旧名は<台北第五/城西/壽尋常小学校>でした。私は今までにも覚えるのは小学校一年生から先生は「以前ここは日本人しか入れない尋常小学校でしたよ!」と言いました。

あの時代台湾人は進学したいにもなかなか難しいでした。

家庭は一つの理由(台湾人の就学率は日本人より下でした)、もう一つは台湾人向けの高等教育機関は少しないでした。多く台湾人は師範学校へ進学して、師範学校から卒業後小学校先生になるケースが多いです。

 

今は教育の話ですが、台湾である現代教育体制は日本政府立てましたから、今まで残り影響はすごいです。例えば、制服と体育服の模様(帽子もありますよ!)や掃除時間があって、掃除方法も同じなどなど。

さらに、日本統治時代から立っていた高校と大学は長い時間経っていてもトップな学校です。大学は一箇所のみ、旧台北帝国大学は現在の台湾大学です。(あの時台湾にも帝国大学がありますよ!)

高校の部分は面白いです。あの時の高校は必ず男女分かって、男性は高等学校へ、女性は女子高校へ行きました。一つの都市は(台北以外)一つの高等学校と女子高等学校です。学校の名前はそのままで都市名を使っています。ですから、現在の台湾で一番人気な高校にはほとんど(例外は一つのみ)日本統治時代から立っていた高校です。

私は台北中山女子高校出身です。旧名は<台北第三女子高校>でした。<台北第三女子高校>は日本統治時代に台湾全国ここしかない台湾の女の子が入れる女子高校でした。そして、私の卒業先<壽尋常小学校>と<台北第三女子高校>は以前隣になった期間がありますし、台北市内の博物館にある日本統治時代の地図はこの二つの学校は隣にあることもう二枚見つけました。笑。

はい、以上です。テーマに戻ります。

 

教育以外に、公衆衛生、交通と水利事業などのインフラ整備は(理由を問わず)日本政府は本当によくやっていました。

「こちらの部分」は台湾人誰にもあの時の日本政府に感謝していると思います。

ただ、「内地」と「外地」の差別化は政治的に作られて、ややこしいな。

 

インフラ整備のほかに、警察制度にもこの時直接導入しました。(警察官はもちろん日本人です。ただ、映画<セデック・バレ>に原住民族の警察にある二人は「親は先住民、生まれたから日本名を付けて、日本人として教育された」役者がいます)

台湾語でみんな尊敬している社会階層は高い人は「大人(ダイニン)」と呼ばれます。

警察(けいさつ)は台湾語で必ず「警察大人(ギンッツァダイニン)」と呼ばれ、もう一つ職業の最後に「大人(ダイニン)」を付けたのは医者さんです。

日本統治時代前に西洋医療は宣教師から導入されましたが、台湾人が医者になれる進学制度は日本統治時代から始まります。他の看護師や助産師など現代医療について仕事や制度整備にも同じ時期に導入されました。

実際には学校に行って教育を受けた台湾人の人数は少しないですけど、教育を受けた台湾人はほぼ教員もしくは医者さんになります。理由の一つは現代医療はあの時「台湾人が選択られる」選択肢でした。

この原因で、台湾人にとって医者さんは頭がいいし、すごく偉い人です。毎年恒例の台湾大学入試センター試験に点数が一番高いのは医学部しかない状態です。

 

台湾の日本統治時代は三つの段階があります。

初期(1895-1915)は軍隊で強硬な統治政策を打ち出します。

そのあと第一次世界大戦が終わって、民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、同化政策(=台湾民衆を完全な日本国民として)を推進する内地延長主義時期(1915-1937)です。「同化政策」は「台湾民衆を完全な日本国民として」と言ったけど、実際に台湾人と日本人は社会構造的に違いますよ。法律や制度など、台湾の場合は何でも「内地」と違いますし、日本政府は本気にやるではありません。

最後は1937年に日中戦争があってからの皇民化運動(1937-1945)でした。

この八年はちょうど日中戦争と太平洋戦争(第二次世界大戦)の間に、この時日本政府はこれから長引く戦争のせいで台湾人の国民意識を上がりたい、日本「内地」だけの力は無理ですから、台湾での戦時体制でした。

 

こちらに急に入りたいのは「日・韓・台」にとってどちらでも辛く翻弄された話です。

台湾は日清戰爭から日本の植民地になって(1985-1945)ちょうど50年間であり、朝鮮(現在の大韓民国と北朝鮮併せて)の日本植民地時代(韓国ですから、ここに「植民地時代」を使います)は1910から35年間です。

日本、台湾、韓国は同じ国でしたから、共同の思い出を持ち、上下一心「大日本帝国」のために精一杯やりました。

海外出征の軍人はほとんど日本人の男の子ですが、植民地の私たちできることもあります。

これは国家のあらゆる物的・人的資源を最大限に動員し、活用する「国家総力戦体制」です。

例えば台湾の原住民族たち山で作戦するのは日本人より強いなんで、高砂義勇軍と呼ばれるのはあの時日本軍隊の一部である東南アジアへ作戦する台湾の原住民族たちでした。

特に第二次世界大戦後半活発している期間に、多くの若い日本人男の子はほとんど出征するので、逆に内地での労働力不足なんで、植民地の中で一番近いの朝鮮からたくさん労働者たちが日本内地へ大量の移動が始まりました。

ところで基本的に工場で働き、住むところにも工場周りの町なんで、今までまだ日本に暮らしの「在日」たちやコリアタウンの成因の一つであります。

 

挺身隊あの時朝鮮で朝鮮人自発的に「国家のために」何ができれば力を合わせたいボランティア団体です。「挺身隊」の種類が色々ありますし、例えば「農村挺身隊」や医師と看護婦の「仁術報国挺身隊」など。そして、この「挺身隊」の中に現時点よく知られるのは「朝鮮女子勤勞挺身隊」または「半島女子勤労挺身隊」かもしれません。

元々工場などでの勤労労働に従事する「女子挺身隊」は元慰安婦の証言から人身売買詐欺の名目に使われていたので、現在の日本と韓国は女子勤労挺身隊を「慰安婦」混同がなされているケースが多いです。

 

実は台湾人の私、最近どんどん韓国のことが羨ましい気になっています。

理由は日本人の目から韓国のことをよく見えます、全体的に韓国のことを知ります。

でも同じ元植民地としての台湾に対する、おばあさんたちとおじいさんたちのみ台湾のことを知っている気がします。

台湾にも元慰安婦おばあさんがいらっしゃいます。元慰安婦おばあさんの中に朝鮮籍の比率は一番多いですが、台湾籍、日本籍、中国籍、フィリピン籍、インドネシア籍やオランダ籍のおばあさんがいらっしゃいます。

 

第二次世界大戦まだ本格化の前に、慰安婦制度が立ち上がりました。

元々は内地での風俗街出身のお嬢さんでしたが、日本出身のお嬢さん人数は全く不足なんで、人身売買詐欺の名目で朝鮮や台湾など「日本語なかなか通じる」おばあさんたちは「海外へ」派遣されました。

ところで、「海外での日本軍たち」のために「海外の戦地へ」慰安所を立ち上がて、恥ずかしい歴史ですけど、なんとなく理解できますし、全世界は乱世中に他の国にも「慰安所」らしいところがありますが、「戦地」じゃない台湾本島にも「慰安所」を立ち上がて、一体どういうことですか?

他のところに慰安所がありますから、台湾には「戦地」じゃないけど軍人が多いので慰安所が必要でしたか。

 

慰安婦問題は日、韓だけの問題ではありません。2015年の「日韓合意」はなぜなら韓国だけと「合意」しましたか。

台湾人は日本の前に立ているのに、

なぜ日本人はあんまり台湾人のことを見えないだろう。。。

片思いっぽい寂しい。。。

 

関連記事:<日本人として戦った、ある台湾人の戦争>

www.nippon.com

 

「中華民国」に戻る?「中華民国」の時代が来た。

そして、1945年8月第二次世界大戦が終わりました。

日本政府は全ての植民地を放棄されて、でもそれぞれの植民地が「誰に返し」が言いませんでした。

アメリカは台湾のことがあの時の「中国」代表蔣介石さんに任せて、「誰に返す」まで決めてない前に「暫時的に」管理してくださいと言いました。ここからこの「中国代表の政府」を「国民政府」と呼ばれます。

私自身の理解には「沖縄県」である沖縄戦や沖縄県が米軍基地になるきっかけにも戦争前に一体沖縄は本当に日本政府に返す方がいいだろうか懸念があるので、1972年前に米軍が日本政府の代わり「暫時的」に沖縄を管理していたと思います。

 

一体、台湾人は第二次世界大戦に勝ったのか。負けたのか。

 

第二世界大戦に台湾という島に住んでいた人たちは本当にこ大日本帝国のために、「日本人として」一生懸命に頑張りました。この日本を負けました。

でも、日本政府の代わり台湾に来た「新しい政府」は「ようやく私たちは同じ中華民国になりました。台湾にいるみなさんお待たせしました。ようこそ!これから私たちは第二次世界大戦に勝った中華民国です!」の姿勢を見せて、

台湾にも本当に勝ちましたのか。

 

この時の台湾人たちの心の中に、自分自身のアイデンティティがすごく揺れている。

 

植民地の制限から「解放されて」「祖国の胸に」自由になると思った台湾人たち、最初にも「ようやくチャイニーズたちと同じ国」になることがすごく喜んでいましたが、

日本統治時代の五十年間に台湾という島であるインフラや現代化モノ(有形のものや無形のコンセプトなど)は中国大陸であるのより、先進過ぎて、現代医療、公衆衛生、礼儀など日本からの影響を受けて少しずつ中国大陸に住んでいるチャイニーズとの価値観の違いがトントン現れました。

 

戦後、勝った国や負けた国どちらにも国内に色々な問題が出ていて、

例えば、あの時の「メインランドチャイナ」に中国共産党と先出ていた「中華民国代表」もしくは「国民政府代表」蔣介石さんの中国国民党(中国国民党の政治立場は反極端な共産。私自身の理解はそんなに右翼ではない左翼ではないの混合形と思っています)がマインランドチャイナに闘っていました。

台湾には戦場じゃないけど、インフレが起きて生活が辛いし、新しくて来た国民政府の人たちと言語通じないし、

ちょっと待って!言語が通じない?!どういうこと?!

 

「国語」(national languages)はそれぞれの国に国家を代表する言語であるものです。

例えば日本は日本語、アメリカやシンガポールは英語。でもインドのような一つの国に二つ以上の「国語」を設定することは珍しくありません。(インドの国語は13種類です)

台湾という島で、初めての「国語」は1937に制定された日本語でした。そして1946から私たちの「国語」は中国で「普通語」(プートンファー)と呼ばれ、日本語で「北京語」と呼ばれmandarin Chineseです。台湾では必ず「國語」(クォユー)と呼ばれます。他の名前(例えば「普通語」や「北京語」)を聞いたら意味だいたいわかりますけど違和感あります。

 

「国語」を制定すること、台湾のケースを見ますと、歴史と政治的なものです。

制定された「国語」は有権者たちの言語でした。人数比率で見ますと、制定された「国語」どちらでも当時トップな喋られる言語ではありません。

 

日本統治時代の台湾、特に1937年から日本語は「国語」になって、家に家族全員と日本語で日常会話できる家庭は「国語家庭」と承認されました。ですけど、全体的に全ての人が日本語でペラペラ話せるのはそうなに簡単ではありません。

学校に行きませんと、家で両親と「母国語」で喋りますから。

 

この記事最初に書いたとおり、「台湾のの歴史は長くではありません」。

チャイニーズ系(中華系)漢民族が台湾にいっぱい来たのは17世紀からでした。でも台湾は中国大陸対して南であり、台湾に来たの人たちにも南方の人なんで、「母国語」は現在「中国の方言」閩南語や客家語です。

日本語で「北京語」(中国語で「普通語」)の言語は北方のことばです。声調は南方のより少しありません。文字は同じですけど(この時中国の簡体字はまだ創造されません。)、わかりやすく説明は例えば仮名で沖縄方言を書けますけど、東京人にこんな文章をもらって、一つずつの仮名を発音が知っていますけど、文章全体的な意味がわかりません。

中国である色々な方言にもこんな感じです。文字は一つずつ発音が知ってますけど、文章全体的な意味がわかりません。そして、同じ漢字それぞれの方言での発音は違います。

 

テーマを戻ります。

日本統治時代終わって、新しい「国語」になった「国語」(つまり日本語での「北京語」又は中国人の「普通語」)は元々台湾人全然知らない、話せないことばです。

 

最悪なのは、日本統治時代におよそ日本政府が来た40年後から日本語のみ強請されましたが、中国の「国民政府」が台湾に「管理される」最初から日本語禁止以外に、出掛けする際に「母国語」も禁止され、「国語のみ」強請されました。

 

ことば以外、もう一つ政治的に in purpose な変更は紀年法です。

西洋な時間観念を台湾に導入されはタイミングは日本統治時代であり、この前台湾人の時間観念は干支でした。(一時辰は2時間、一刻は十五分)

日本は明治維新以降、西洋の「一日は24時間、一時間は60分、一分は60秒」の六十進法と太陽暦を導入されました。

まあまあ日本統治時代の台湾でウェスタンなキリスト紀元じゃなくて「明治」、「大正」と「昭和」を使っていましたが、私にとってあんまり違和感がないけど、中国の「国民政府」が台湾に来た際に紀元は「中華民国」になりました。

「中華民国元年」(略称:民国元年)は1911年。台湾には「まだunder Japan’s occupation」でした。

 

こんの「中華民国元年」は、ほんま台湾の「元年」ですか。

一応今台湾で「中華民国」の紀年法は、学校の学年暦と生年月日書く際に使います。キリスト紀元よりあんまり使いません。

 

続く。。。