CHANG, Yu-Chiehのブログ

台湾出身、「石川カオリ」というペンネームを使って日本語で世界のことを伝いたい。

Formosan!「台湾」という島で暮らし(1/3)

初めまして、こんにちは!台湾で生まれて、日本教育を受けて生きていた「日本語世代三代目」のカオリです。

本名は「張」(チャン)ですが、いつも「石川カオリ」というペンネームで活動しています。

このサイトである記事もカオリの名前で活動すると思っています。

この記事は<あなたの話、自分で話せよ>の第一号でした!!どうぞ、よろしくお願いします!

 

前言

さて、今回のテーマは日本語で台湾の歴史を伝いたいです。

台湾は小さい島国ですが(ただ日本全体面積の十分之一です)、でも同じ台湾で暮らしの人たちにとって、世代別や世帯別などいろんなせいで、様々な「台湾」についての想像やアイデンティティなど持っています。

このきっかけに、同じ台湾で暮らしの「台湾人」たち見た「台湾」は違いますと、

じゃあ、他の国のたち見た台湾はどうな国だろう?

そして、国別で同じところを見れば、気になる点にも違うだろう?

 

「自分の話、他人より」自分で話たら、正しいだろう?

同じこのところに住んでいる人々の口から言った話は違うでもいいし、大事なのは「自分の話、自分で言う」ことです。

 

このアイデアを考えて、今回私が見た台湾、

こんな私だからこそ見て知っていた台湾、皆様と共有したいと思っています。

 

多様な文化共生している「FORMOSAタイワン」

台湾の歴史は長くではありません。ちょっと待ってください、「歴史は長くではありません」ってどういうこと?!

単純に「文字で記録がある」「台湾この島について」の歴史的な資料で見ますと、台湾の歴史は長くではありません。日本の江戸時代からおよそ400年ですよ!

ええと、じゃ400年前の台湾には豊かな自然環境でしたか。私は今までの台湾にも自然が豊かな島国と思っています。笑

 

台湾には色んな「原住民族」で暮らしの島です。今までも。現在まだ台湾で暮らしの「原住民諸族」は確認してたのは16種類以上があります。細く見ますと、それぞれの文化や言語など全く違います。

でも、マクロ的に太平洋である島やインド洋であるマダガスカルまでのネイティブは使った言語は似てますし、今は「南島語系(Austronesian languages)」、もしくは「南島語族」と呼ばれます。

ところで、言語学から見ますと、「南島語族」分部の範囲内、台湾という島は言語のダイバーシティ(=多様性)は一番すごいところであり、さらに台湾は「南島語族」分部の一番北であるところで、海流に沿くて他の島へ移動することができますし、台湾は「南島語族」の源流と呼ばれる人が多いです。[1] 私自身にもそう信じています。

台湾には昔から色んな文化があって、平和に自然と共生しているオアシスです。

 

ここまで、いつも「原住民諸族」で言いますが、日本語で言ったら「先住民諸族」の方がいいと思います。

でも私は「先住民」で言いたくありません。

理由は台湾の「原住民諸族」たち昔から今までにもずっと台湾で生きています。

「原」の意味はoriginal、元々、「原本」、根本です。

「先」はin the past、以前、時間的に前という意味ですが、今はそうではない状態です。

 でも、台湾の「原住民諸族」は昔から今までずっと台湾で暮らしなので、「先」ではなく、「原」ですよ!

日本人はなぜなら「原住民」は差別的な単語と思ったのが私は知りません。でも台湾で「原住民諸族」に「先住民」と言ったら、大変失礼です。><

ですから、私は日本語で言っても必ず「原住民(諸)族」と言います。(これからは偶に概括的な「原住民族」で「原住民諸族」として説明します)

 

15世紀中ばから17世紀中までにはユーロッパによる植民地主義的な海外進出しました。

この時代は「大航海時代」もしくは「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)と呼ばれています。

ポルトガル人は海から「今台湾という島」を見て、台湾の風光明媚な自然をすごく感動してポルトガル語で「Ilha Formosa」と言いました。Ilhaは「島」、Formosaは「美しい」という意味です。このきっかけに、「Formosa」には台湾この島の名前になりました。

今ネットで「Formosa」を検索したら、出た資料にもほとんど台湾のことです。

 

「美しい島」のご褒美を聞いて、美しい島で生きている人たちにとってもちろん自慢です。

「Formosa」は台湾人なら必ず知ってるポルトガル語です。広告やブランド名など今でもよく使ています。ですけど、私は中学校の先生から全く違う見解を聞いて、

「あの時なぜポルトガル人はIlha Formosaと言ったのが?」

「台湾にはあの時Ilha Formosaと呼ばれる島のみではありません。」

「ポルトガル人がIlha Formosa言った理由は『もしこんな美しい島が自分の植民地になったら、いいな!』でした。」

 この時から、私には「Formosa」のことが嫌いになりました。

 

こんな私、台湾の公式観光広告以外、久しぶりに「Formosan」と出会ったのは<八重山の台湾人>という本にでした。

1970年代石垣島に暮らしの台湾移民たちに、中学生の山内得義さんが「石垣島に暮らしの台湾移民たち」について<The immigrant and citizenship>[2] がテーマをとして、読売新聞社と日本学生協会(JNSA)基金共催する第二十二回<高松宮杯全日本中学校英語弁論大会>に第二位になりました。彼のスクリプトを読みますと、「台湾人」の英語表記は今使っている「Taiwanese」ではなく、すべて「Formosan」と言いました。

まさか久しぶりに「Formosan」と出会いところは日本人書いた本に。そして、あの時の山内さんは本当にすごいと思って、この記事の日本語バージョンのタイトルは「Formosan!」付きてた理由です。

 

ここまで、今よく「台湾」という名前で認識しているこの島、「タイワン」ではありません。

「Formosan」という名前にも他の人が「この島の存在」が発見して、付く名前です。

でもこの島に昔々から、ここで暮らしの人間がいます。

大事なのは、ここで暮らしの人にとって、「このところの名前」は何か?

 

もし、とらえもんからタイムマシーンを貸して、400年前の台湾にもとって、400年前このところの名前は何か?

もし400年前の台湾にもとって、すべての「原住民族」の「部落」(台湾で「部落」という意味は「原住民族」住む町です。差別的な意味特にないです)に訪ねて、このところの名前は何だと聞いたら、たぶん全体的な「我々は同じの島でくらし」という認識がないと思います。

それぞれの「原住民族」は言語にはあんまり通じないし、同じ「原住民族」なら、他の「部落」と交流する機会がありますけど、他の「原住民族」と交流することはなかなか難しいかもしれません。

 

大事なのは、ここで暮らしの人にとって、「このところの名前」は何か?

ですから、今ここに住んでいる人にとって、私たちは台湾人。私たちが住んでいるところは「台湾」という島です。それはもう十分と思います。

 

文字記録がある台湾歴史400年、ここから始まる

ポルトガル人は有名な「Ilha Formosa」単語を残した後、そのままこの島を通り過ぎました。ユーロッパ人たちが東アジアへ来るきっかけに、「文字記録がある台湾歴史」は始まりました。

 

ポルトガル人通り過ぎる後、続いて台湾に来たユーロッパ人はオランダ人(1624-1662)とスペイン人(1626-1642)でした。オランダ人は南台湾で、スペイン人は北台湾でいました。

あの時ポルトガル人マカオで、中国へ行くのはとっても便利でした。

オランダ人(オランダ東インド会社、The Dutch East India Company)の中心はインドネシアのジャワ島で、スペイン人の拠点はフィリピンのルソン島でした。オランダ人やスペイン人はポルトガル人より東アジアに来た時点は遅いので、中国とちょっと離れる島しかない状態です。

 

スペイン人は元々日本人と交流したいなので、北台湾から日本へ行くのはフィリピンよりなかなか便利でしたが、先言ったとおり、今は日本の江戸時代ですよ!鎖国体制にオランダ人のみ日本人と貿易ができますし、「蘭学」にもこの背景に欧米諸国「先進的な」学問や技術などとんとん日本に伝入しました。

 

ところで、日本人と交流したいスペイン人たちは鎖国のせいで、何にもできない状態で、台湾からフィリピンに「戻りました」。

あの時代の歴史は悲しい。。。フィリピンは元々スペイン人住む所ではない、でもここで「戻った」と書いています。

 

この時の台湾、オランダ人とスペイン人から連れてきた物事は洋風建築以外(なんが台湾である西洋館の見た目は日本の旧居留地である異人館のスタイルは違います。たぶん台湾に来たのは商売人ではなくただ会社の名前付き、実際には政治的な植民政府でした。)

宗教(オランダ人はキリスト教、Christianity;スペイン人はカトリシズム、Catholicism)、「新しい種物」(例えば、トマト、えんどう)、牛に農業生産に導入すること西拉雅族(もしくはシラヤ族。南台湾で暮らし「原住民族」の一つ)の言葉がローマ字で文字記録可能しました。(アルファベットでシラヤ族の言葉を記録した文章は新港文書という。新港文書現時点はもう死語化になりました。)

 

特に注目される点は

確かにあの時オランダ人とスペイン人が台湾に来ましたが、オランダ人やスペイン人の拠点は台湾全島ではなくて、飛び地(enclave and exclave)らしい形でこちら、そちら、あちらは「オランダ人と友好」な「原住民族部落」、でも全体的に台湾全島はunder オランダ人のoccupationではありません。

 

簡単にまとめて、台湾にとってこの時期は非常に重要なターニングポイントでした。

  1. 「台湾」という島の名前はこの時期からです。
  2. 台湾で初めての「政権」はオランダ人が立ちました。
  3. 重商主義により、本来原住民族たちが自給自足的な農業、漁労中心の経済活動は本格的な商業を発生しました。
  4. 労働力不足のために、オランダ人は中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」たちが募集していました。

 

今から台湾には「漢人」の世界だ。

この時期、東アジアの海にユーロッパ人以外、アジアン海賊にも多いです。

海賊の中に、台湾人がよく知ってるのは鄭芝龍さんです。彼はたくさん言語が話せるそうです。(ウィキペディアより中国語、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語が通じるそうです)彼の妻は日本人のこと、私は中学校と高校の歴史先生から聞いたことがあります。彼の言語能力はすごいなと思います。

私はいつも中国語の名前「鄭芝龍」でと呼びますが、この記事書くのためにネットでもう一度検索して、西洋の方は中国語名前より、「Nicholas Iquan(一官)」で表記する記事が多いです。日本語の記事にも偶々「ニコラス・一官」で記されることがあります。

 

でも鄭芝龍さん本人はなかなか台湾とあんまり関係ないですが、彼の息子と孫は台湾歴史に対して非常に重要でした。

 

あの時の中国はちょうど明朝が滅亡し、満州族の王朝である清が成立した。これに対して、多く明朝の皇族・遺臣たちは反清復明を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返しました。鄭芝龍さんの息子鄭成功さんは、清への反攻の拠点を確保するために台湾への進出を計画して、「台湾人の代わりに」東インド会社のオランダ人を台湾から駆逐することに成功しました。

今は「鄭氏政権」(1662-1683)と呼ばれる統治は台湾で初めての漢民族政権による統治でして、鄭氏一族による台湾統治は3代(鄭成功-鄭經―鄭克塽)23年間で終了した。

 

この時の台湾は

鄭成功東都と改名して、(でもその後鄭成功の息子鄭經さんは東寧(王国)」へもう一度改名しました。)鄭成功は武将の陳永華の建議を採用して、「漢民族」の中央集権的な官制制度、教育体制や明朝暦法など導入して、世界的に独立国として台湾独自の政権を打ち立て台湾の政治や経済発展など開発してから、鄭成功さんは今までも台湾社会に極めて高い地位を占めています。

 

結論を出しますと、この二十年間に「反清復明」の目標は失敗しました。「亡命政権」で言われる文献にもあります。でも「鄭氏政権」がオランダ人を台湾から駆逐して、そして台湾で最初な漢民族政権になりますし、この二つの点だけ、台湾の歴史認識は非常に有意義でした。

 

中国清朝が台湾の「鄭氏政権」を倒して台湾を編入したのは1683年。

台湾は中国の一部のは1683年から日清戦争終わりの1895年まで、「台湾歴史」に一番長い212年間でした。台湾ではよく「清朝統治時代」前期(1683-1873)と後期(1874-1895)分かれて、前期の台湾には中国大陸の福建省の「台湾府」。「省」より二番目の地方自治体でした。

この時の中国清朝政府は台湾のことあんまり治めていました。(全く統治したくない→台湾のことが編入する理由はただ台湾の鄭氏政権が清朝への反攻したいだけです。)

消極的に治め整える例は、

ちょっと前に言ったとおり、台湾にはいろいろな民族と一緒に暮らしの居場所です。「外国人」たちが来たり行ったりでも、台湾で住んでいた民族は全体的な「原住民族」は漢人より多いでした。(リマインダー:厳密に言いますと、「原住民族」は一つの民族ではありません。)この時期から、台湾で暮らしの民族の中に、中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」の人数は初めてトップになりました。

ですから、「外来」の「漢人」と「原住民族」たちどうやってこのところに一緒に生活しますか?これはポイントでした。

あの時「福建省台湾府」に対して非常に消極的な中国清朝は「原住民族」の生活域は化外の地(=中華文明に於いて文明の外の地方、中国文明の行き届かない地域)として、土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけて、昔から台湾で生活してた「原住民族」の生活域は清朝の統治範囲ではないと発言がありました。[3]

ここであの時中国清朝政府は管理のために簡単に台湾である「原住民族」は二つのグループに分けて、生番は「土牛溝」の奥に、ほば山に住んでいる「原住民族」たち、そして、元々活動範囲はあの時「土牛溝」近所からあの時「漢人が領有して」、漢人となかなか交流チャンスがあるから、そうなに「中華文明に於いて文明の外」ではない熟番)でした。(こちらの「熟」は日本語での「仲良く」という意味です)

現在の台湾には「熟番」と「生番」は言わないけど、(理由は中華文明や統治者を中心の差別化)あの時二つのグループを分かれて、「熟番」(今は平埔族群と言います)の「漢化程度」(=中華文明を受ける影響程度)はすごくて、今まで台湾である「平埔族群」たちは政府から承認している民族の数量は少しない状態です。

 

もう一つの例は、

「渡台禁令」という、中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」が農業生産するために台湾へ移住したい際に、単身赴任ような、男のみ台湾へ移動することができました。あの時期の中国社会は人が多い過ぎて、農業生産の産量はすべての人に十分に食べられないし、中国沿岸の人が「海外へ」移住する選択したのは多いでした。

今東南アジアで(フィリピン、マレーシア、インドネシアなど)「中華系移民社会」にはこの時点から移動していました。(正しく言えば、中国明朝からです。清朝にはそのまま続けています。)

問題には、中国沿岸から台湾への道は危険です。生きていて台湾へ着いたの人は半分以下と思って、そうなに危険でも、あの時の人たちにも必死に海を渡しました。

「渡台禁令」のせいで男のみ台湾へ移住しますと、台湾の社会構造はものすごくおかしいでした。若い男の人数は普通とはるかに超えました!!!

このせいで、あの時の台湾にたくさん社会問題がありました。

 

二回のアヘン戦争(1840と1842 Opium War, First Anglo-Chinese War)後、中国清朝政府は急に「まさか欧米列強は我が国の土地興味があるの」を気づいて、遂にベトナムが領有していたフランスとベトナム阮朝の宗主国である中国清朝はベトナム問題についての「清仏戦争」(中国語で「中法戰爭」)、ベトナム語で「Chiến tranh Pháp-Thanh」もしくはベトナム漢字で「戰争法清」、フランス語でGuerre franco-chinoise)がありました。

なんが、「清仏戦争」にあの時中国清朝政府管理している台湾にも戦場になりました!

この以外にも色々な戦争や欧米列強から中国清朝政府にのプレッシャーがあって、とりあえず、欧米列強の人たちは台湾で旅行、商売や伝教などできますし、台湾にも四つの港を世界に開港しました。

 

続く。。。

 

yuchieh.hatenablog.com

 

 

[1] 出典:Jared m diamond. (2000). Nature. Retrieved 26 February, 2017, from http://www.nature.com/nature/journal/v403/n6771/full/403709a0.html

[2] “The immigrant and citizenship” by山内得義 in 1970:

          My parents were immigrant from Formosa. They were, in a sense, pioneers who sought a new life in a new land. They had many hardships to face: they had to work very hard in the fields under the scorching sun; they had to work among fellow human beings who were not yet friends and, most of all, they had to work without citizenship.

          One of the immigrants from Formosa brought with him young pineapple plants. He taught the people in Yaeyama how to cultivate them. This was, of course, the first time that pineapple were grown in Okinawa. Think of the number of people who today make their living through the cultivation, processing, and marketing of pineapples. This is because the first Formosan immigrants to Okinawa came to help those islands develop.

          But what about the descendants of these first Formosan immigrants to Okinawa? Just for a minute please, think with me about these people and their situation. We don’t have citizenship in Okinawa. But why? Why can’t we obtain civil right? The people who go to Brazil, for instance, are granted citizenship. I find this very hard to understand. Some of us, you know, have been born in Okinawa, have grown up there, and have been educated there under the Japanese educational system. We live like you. We think like you. We feel ourselves part of you. Yet you have not accepted us into your family.

          Perhaps the reason we are not able to obtain citizenship is found in the Japanese legal system. Yet I feel that e should take advantage of the present opportunity. It’s unfortunate, but Okinawa is still under American administration, at least until 1972. Is it possible for us to obtain citizenship under the American legal system, while we still have the chance? Or will we have to wait till the reversion in 1972? Like most of you, most of us were overjoyed to hear the news that Okinawa would again become a part of Japan in 1972.

          Yet we wonder what will happen to us after the reversion if we are not allowed to become citizens of Japan, while Okinawa is still under American administration. As you know, through citizenship we obtain civil right. We immigrants and descendants of immigrants want these rights. We want them now. We want them fully as you enjoy them now. We feel that we are part of you, one of you. We think of ourselves as Japanese. I would like to ask you what you think of this situation of Formosan immigrants. But perhaps you students are too busy to with your studies and have no time to think about this problem. But I can’t stop thinking about it. I am a descendant of Formosan immigrants.

          I look forward to a bright future. I believe that someday the sun will rise for us immigrants. I want to be a citizen. I want to be called Japanese. I believe that some day we shall enjoy the rights of citizenship in the land which we now call our homeland. I hope that day will come soon.

[3] 日本は「宮古島島民遭難事件」の部分が多く議論をあって、「宮古島島民遭難事件」より台湾側はそのあとの「牡丹社事件」が必ず知っています。あの時中国語での記録はこちらです:

 

清朝總理衙門大臣毛昶熙:「二島(琉球與台灣)俱我屬土,屬土之人相殺,裁次固在於我,我恤琉人,自有措置,何預貴國事,而煩為過問?」

日本政府外務卿(外務大臣の旧称)副島種臣:「貴國既然已知撫卹琉球民,為何不懲辦台番?」「生番害人,貴國置之不理,我國有必要問罪島人,因與貴國盟好,特先來奉告」

清朝總理衙門大臣毛昶熙:「(台灣)生番係我化外之民,問罪與否,聽憑貴國辦理。」


簡単に「「(台灣)生番係我『化外之民』だけ和訳しますと、「漢人と交流しない台湾の『原住民族』(=生番)は中華文明に於いて文明の外なので、私の国民ではありません」ということです。

ウィキペディアの<宮古島島民遭難事件>で「原住民は『化外の民』(国家統治の及ばない者)である」と書きますが、<台湾出兵>は「台湾人は『化外之民』で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」と書いて、全ての台湾人ではありません。

理由はこの「生番」は漢人と交流しない台湾の『原住民族』ということです。


この事件の経緯は後で説明します。