CHANG, Yu-Chiehのブログ

台湾出身、「石川カオリ」というペンネームを使って日本語で世界のことを伝いたい。

映画<海の彼方>ガイド

戦前、台湾は日本の植民地であり、つまり1895年から1945年までの間、台湾と日本は同じ大日本帝国でした。
同じ国ですから、台湾ー石垣島ー沖縄ー日本本島の間のあちこちで、フェリーによる「国内」移動が行われていました。
大日本帝国の一番南の島であった台湾は、「内地」つまり日本本島に住んでいた「日本人」のため、「南国」の農産品を生産し、ほぼ全て内地へと運んでいました。
そのうちの「鳳梨」(別称:パイナップル)は、「南国から」送られてくる果物の代表でした。
第二次世界大戦前、台湾中部出身の人たちが、政令をきっかけとして石垣島へ移住していました。
彼らは石垣島の「農業キセキ」(パイナップルと牛が農業生産に導入されたこと)にとって非常に重要な存在だったのですが、過去の歴史と当時の政治のせいで、彼らの日本国籍への帰化が認められる道は、私たちの想像以上にとっても難しいものでした。
実際には元々台湾人たちの国籍問題はどちらの国にあっても解消することが難しいのですが、台湾は元・植民地であり、また現在沖縄には米軍基地があるせいで(石垣島は沖縄県の一部です)、石垣島に住んでいる台湾人は、日本国籍を取得するために誰よりも頑張らなければなりませんでした。一方、石垣島には沖縄県一部のきっかけて(?石垣島は沖縄県やから)、1972年に沖縄県が米軍支配から「日本に戻った」際に、多くの台湾人たちは、「今の国籍(何国籍?中華民国)が失くなる、もしかしたら中国籍(中華人民共和国)になるかもしれない」と、国籍を失うことを防止するため、日本国籍へと帰化しました。

 

《八重山の台湾人》

この本は、八重山日々新聞社の松本さんが『八重山日々新聞』に投稿した記事を集めて出版したもので、八重山で生活する台灣移民者たちの姿を伝える作品です。同じ(?同じところ出身の移民)台湾から八重山へ移住した人たちが、なぜ八重山へ移住したのかという理由やそのきっかけ等について、忠実に記録されています。
このドキュメンタリー映画《海の彼端》は、この《八重山の台湾人》の追記のようなもので、《八重山の台湾人》に登場する玉木玉代おばあさん(石垣島への移民の一世)と、偶然《八重山の台湾人》を読んで家族の歴史を発見した三世である孫、玉木慎吾さんとの物語です。
簡単的に概要すると、《海の彼端》には、三世の慎吾さんが大人になった後、初めて台湾出身のおばあさんと交流して自己意識を再構築していくプロセスが描かれていました。
私自身は台湾出身、アイデンティティは「日本語育ち世代の三世」です。この文章の最後に、私の家族と玉木家の似ている点について説明します。《海の彼端》は、私にとって初めて、映画を観ながら最初から最後までずっと泣いてしまった映画です。その原因は、たぶん、私が自分のことを映画の慎吾さんに投影したからだと思います。

この映画のストーリーは、大きく二つの部分に分けられます。まずは玉代おばあさんが米寿を迎えること、そしてもう一つは、玉代おばあさんが死ぬ前にもう一度台湾へ親戚を訪ねることです。
ここからは、その二つの出来事について、それぞれ分けてご紹介していきます。

 

玉代おばあさんの米寿

玉代おばあさんが米寿のきっかけに、日本全国にバラバラに住んでいる玉木家が、久しぶり全員で石垣島に集まりました。
台湾人にとっての「家族」は、源頭(?起こり、来源、「水源」の源。)が同じ祖先の大家族であります。日本語の「家族」に対して過大化な意味です。また生きている曽祖父母や祖父母に住んでいる「お家」を中心に、重要な節日に(例えば、お正月や祖先の忌日など)、「全ての親戚」がこの「お家」に集まって、話したり、食事をしたりするのは今まで台湾で普通な日常生活です。日本にもこんな文化がありますけど、私自身理解した文化の違いにとって、玉木家はこちらの点についてもっと台湾系であると思います。
私見た字幕は中国語バージョンなんですが、日本語字幕にはどうやって翻訳するのが私は知らないけれど、映画にもちろん日本語で話す部分は中国語字幕付きけれど、玉木おばあさんがおっしゃった台湾語で字幕ないところでわかります。
今台湾人の若者世代が台湾語あんまり理解できない人数が多いです。(筆者自身ははたちまでおばさんと一緒に住んでいたので、台湾語で日常会話ができます)

ここで簡単的に紹介しますと、台湾には多言語社会であり、別々の「民族」の「母国語」が違う、かつ違う世代に生まれて「政府から制定した標準語」が違います。
例えば、台湾の日本統治時代に(特に1930後半から)「政権を持ち」政府が制定した標準語は日本語です。ただし、「管理者が見えないところ」例えば家に自分が一番慣れる「母国語」で話しては普通でしょ。第二次世界戦争終わって、日本政府の代わりに台湾に来た「中国国民党」が制定した「標準語」は中国語になって、70年間続く現在は日常生活にほとんど「標準語として中国語」で話して、他の「母国語」はどんどん「言語死」の道へ進んでいます。
この理由で、80歳代超えの人たちはだいたい日本語や台湾語で話しています。40〜80歳代の人たちは(誰と話す場合を考えて)中国語や台湾語で話します。そして若者たちは地域より、全体的に現在の標準語として中国語でしかない状態かもしれません。

この映画を観ますと、もし映画に出た「日本語、台湾語と中国語」この三つの言語が認識しないと、玉木おばさんが「誰とどうな言語で喋る?この言語を使う時にどうな内容を喋る?」ことが理解できません。

こちらはこの映画に非常な重要なポイントです。

もし日本語しか聴ける人の場合は、そのまま字幕を読んで映画を観たら、たぶん感じられる言語の壁は日本語しか育ち慎吾さんが初めておばさんと台湾に「戻った」時、台湾である「親戚」と話したい場合は翻訳アプリが必要でした。
翻訳アプリを使ったことがある人はたぶん「翻訳の精度」について翻訳した文をなかなかあってない、そして音声機能を使ったら違和感ある声調があることが「感じられる」でしょ。

 

もう一度台湾へ

一つのシーンは玉木家たちが「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の祭り踊りを観ました。
あの時慎吾さんが「ふるさとに帰ったおばあさんは今にも自分の国のことばを理解できない」と思いました。

実はあの時の玉木おばあさんは台湾語が一番めっちゃペラペラしていました。
証拠は玉木おばあさんが親族と会った時です。玉木おばあさんは久しぶり台湾に住んでいる親族とドアの前に喋った内容は三分間くらい長さであり、こちらしか玉木おばあさんの本音を話してたシーンであります。

じゃなあ、なぜなら「九族文化村」テーマパックに玉木おばあさんさんはアナウンスや歌を聴いて理解できないだろう?
「九族文化村」という名前は、台湾である原住民族(=先住民族。ただし、私は台湾人だから必ず「原住民族」と呼ぶ。理由は「原」の意味はoriginal。「先」はこの前、今はそうではないという意味です。台湾の原住民諸族たち今までにも台湾で生きていますから、台湾で「先住民族と言ったらチャイニーズ中心に差別的なニュアンスがあります」)の中に9民族を中心なテーマパックです。(追記、現時点台湾で承認された原住民族は16種類があります)
色々な民族があったら、言語にもバラバラで、小さいからずっと部落に住んでいたしか原住民族のことばを話せる事態です。

台湾には多文化共生な社会であります。様々な言語で話せて、speaking languageだけ文字がない言語にもあります。
台湾である日本統治時代から、台湾の「国語」は日本語で設定して、戦敗後中国から「国民政府」が台湾に来てから「国語」は中国語になります。今までの「国語」にも中国語です。
玉木おばあさんが生まれた時代は台湾である日本統治時代です。国語は日本語でしたけれど、日清戦争始まる前に、日本語教育は強制的にではありません。
民間的に自分が慣れて言語で話せているのは普通でしたから、玉木おばあさんの母国語は「台湾語」と呼ばれ、中国語方言の一つ「閩南語」です。
玉木家は戦敗後もう一度八重山に戻ってから、玉木おばあさんは現時点の「国語」としての中国語はもちろん理解できない状態です。

映画の話を戻って、あのシーンは玉木家「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の踊りを観ます。
テーマパックであるアナウンスは「国語」としての中国語であり、パフォーマンスは原住民族の言語で唄います、もちろん台湾語と日本語しか話せる玉木おばあさんは聴いても全く理解できないです。

 

終わりに

なぜなら私と慎吾さん似てますと、
私は二十歳までにずっとおばあさんと住んでいて、おばあさんが育ちました。
うちのおばあさんは「日本語世代」と呼ばれ、おばあさんは日常会話レベルの日本語を聴いて理解できますし毎日ラジオを聴いた歌は日本語で演歌と台湾語しかないです。
うちの家族は台北である台北人なら必ず知ってる昭和風日本食堂を運営しています。
私初めて学んだ言語は台湾語です。
でも幼稚園に入ってから私以外の人たちはすべて「国語」を話して、あの時から「国語」は私の母国語になりました。
台湾語を使えるチャンスは家に帰って、おばあさんと話すしたありませんでした。
私とっての「台湾語」は中国語方言の「閩南語」かつ日本語の単語でした。
日本統治時代前に台湾でないモノはそのまま日本語の発音で呼びます。
そして、うちはもっとレベルアップして、「いただきます」や「おやすみ」などにもそのまま「私の台湾語」になりました。
小学二年生から六年生まで、私はおばあさんと一緒に寝っていました。
あの時毎晩は私の日本語教室でした。簡単な単語と童謡なとしかなかったけど、毎日演歌を聞くのは事実です。
偶に知りたい日本語単語があって、おばあさんは答えないケースが多いでした。
理由は私の妹は「国語」のみ話せますので、おばあさんの「中国語教室」が始まりました。
ということで、おばあさんの頭の中に台湾語、日本語と中国語を混ぜていて、あの頃から台湾語でおばあさんに日本語を聞いたいと言っても、もらった返事は中国語になりました。

日本語は私の「第二外国語」でしたが(第一はもちろん英語です)、私にとって日本語は「外国語」ではありません。
私のおばあさんの言語でした。
おばあさんがトントン忘れていた言語でした。

 

海の彼方|OAFF2017|特別招待作品部門