CHANG, Yu-Chiehのブログ

台湾出身、「石川カオリ」というペンネームを使って日本語で世界のことを伝いたい。

映画<海の彼方>ガイド

戦前、台湾は日本の植民地であり、つまり1895年から1945年までの間、台湾と日本は同じ大日本帝国でした。
同じ国ですから、台湾ー石垣島ー沖縄ー日本本島の間のあちこちで、フェリーによる「国内」移動が行われていました。
大日本帝国の一番南の島であった台湾は、「内地」つまり日本本島に住んでいた「日本人」のため、「南国」の農産品を生産し、ほぼ全て内地へと運んでいました。
そのうちの「鳳梨」(別称:パイナップル)は、「南国から」送られてくる果物の代表でした。
第二次世界大戦前、台湾中部出身の人たちが、政令をきっかけとして石垣島へ移住していました。
彼らは石垣島の「農業キセキ」(パイナップルと牛が農業生産に導入されたこと)にとって非常に重要な存在だったのですが、過去の歴史と当時の政治のせいで、彼らの日本国籍への帰化が認められる道は、私たちの想像以上にとっても難しいものでした。
実際には元々台湾人たちの国籍問題はどちらの国にあっても解消することが難しいのですが、台湾は元・植民地であり、また現在沖縄には米軍基地があるせいで(石垣島は沖縄県の一部です)、石垣島に住んでいる台湾人は、日本国籍を取得するために誰よりも頑張らなければなりませんでした。一方、石垣島には沖縄県一部のきっかけて(?石垣島は沖縄県やから)、1972年に沖縄県が米軍支配から「日本に戻った」際に、多くの台湾人たちは、「今の国籍(何国籍?中華民国)が失くなる、もしかしたら中国籍(中華人民共和国)になるかもしれない」と、国籍を失うことを防止するため、日本国籍へと帰化しました。

 

《八重山の台湾人》

この本は、八重山日々新聞社の松本さんが『八重山日々新聞』に投稿した記事を集めて出版したもので、八重山で生活する台灣移民者たちの姿を伝える作品です。同じ(?同じところ出身の移民)台湾から八重山へ移住した人たちが、なぜ八重山へ移住したのかという理由やそのきっかけ等について、忠実に記録されています。
このドキュメンタリー映画《海の彼端》は、この《八重山の台湾人》の追記のようなもので、《八重山の台湾人》に登場する玉木玉代おばあさん(石垣島への移民の一世)と、偶然《八重山の台湾人》を読んで家族の歴史を発見した三世である孫、玉木慎吾さんとの物語です。
簡単的に概要すると、《海の彼端》には、三世の慎吾さんが大人になった後、初めて台湾出身のおばあさんと交流して自己意識を再構築していくプロセスが描かれていました。
私自身は台湾出身、アイデンティティは「日本語育ち世代の三世」です。この文章の最後に、私の家族と玉木家の似ている点について説明します。《海の彼端》は、私にとって初めて、映画を観ながら最初から最後までずっと泣いてしまった映画です。その原因は、たぶん、私が自分のことを映画の慎吾さんに投影したからだと思います。

この映画のストーリーは、大きく二つの部分に分けられます。まずは玉代おばあさんが米寿を迎えること、そしてもう一つは、玉代おばあさんが死ぬ前にもう一度台湾へ親戚を訪ねることです。
ここからは、その二つの出来事について、それぞれ分けてご紹介していきます。

 

玉代おばあさんの米寿

玉代おばあさんが米寿のきっかけに、日本全国にバラバラに住んでいる玉木家が、久しぶり全員で石垣島に集まりました。
台湾人にとっての「家族」は、源頭(?起こり、来源、「水源」の源。)が同じ祖先の大家族であります。日本語の「家族」に対して過大化な意味です。また生きている曽祖父母や祖父母に住んでいる「お家」を中心に、重要な節日に(例えば、お正月や祖先の忌日など)、「全ての親戚」がこの「お家」に集まって、話したり、食事をしたりするのは今まで台湾で普通な日常生活です。日本にもこんな文化がありますけど、私自身理解した文化の違いにとって、玉木家はこちらの点についてもっと台湾系であると思います。
私見た字幕は中国語バージョンなんですが、日本語字幕にはどうやって翻訳するのが私は知らないけれど、映画にもちろん日本語で話す部分は中国語字幕付きけれど、玉木おばあさんがおっしゃった台湾語で字幕ないところでわかります。
今台湾人の若者世代が台湾語あんまり理解できない人数が多いです。(筆者自身ははたちまでおばさんと一緒に住んでいたので、台湾語で日常会話ができます)

ここで簡単的に紹介しますと、台湾には多言語社会であり、別々の「民族」の「母国語」が違う、かつ違う世代に生まれて「政府から制定した標準語」が違います。
例えば、台湾の日本統治時代に(特に1930後半から)「政権を持ち」政府が制定した標準語は日本語です。ただし、「管理者が見えないところ」例えば家に自分が一番慣れる「母国語」で話しては普通でしょ。第二次世界戦争終わって、日本政府の代わりに台湾に来た「中国国民党」が制定した「標準語」は中国語になって、70年間続く現在は日常生活にほとんど「標準語として中国語」で話して、他の「母国語」はどんどん「言語死」の道へ進んでいます。
この理由で、80歳代超えの人たちはだいたい日本語や台湾語で話しています。40〜80歳代の人たちは(誰と話す場合を考えて)中国語や台湾語で話します。そして若者たちは地域より、全体的に現在の標準語として中国語でしかない状態かもしれません。

この映画を観ますと、もし映画に出た「日本語、台湾語と中国語」この三つの言語が認識しないと、玉木おばさんが「誰とどうな言語で喋る?この言語を使う時にどうな内容を喋る?」ことが理解できません。

こちらはこの映画に非常な重要なポイントです。

もし日本語しか聴ける人の場合は、そのまま字幕を読んで映画を観たら、たぶん感じられる言語の壁は日本語しか育ち慎吾さんが初めておばさんと台湾に「戻った」時、台湾である「親戚」と話したい場合は翻訳アプリが必要でした。
翻訳アプリを使ったことがある人はたぶん「翻訳の精度」について翻訳した文をなかなかあってない、そして音声機能を使ったら違和感ある声調があることが「感じられる」でしょ。

 

もう一度台湾へ

一つのシーンは玉木家たちが「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の祭り踊りを観ました。
あの時慎吾さんが「ふるさとに帰ったおばあさんは今にも自分の国のことばを理解できない」と思いました。

実はあの時の玉木おばあさんは台湾語が一番めっちゃペラペラしていました。
証拠は玉木おばあさんが親族と会った時です。玉木おばあさんは久しぶり台湾に住んでいる親族とドアの前に喋った内容は三分間くらい長さであり、こちらしか玉木おばあさんの本音を話してたシーンであります。

じゃなあ、なぜなら「九族文化村」テーマパックに玉木おばあさんさんはアナウンスや歌を聴いて理解できないだろう?
「九族文化村」という名前は、台湾である原住民族(=先住民族。ただし、私は台湾人だから必ず「原住民族」と呼ぶ。理由は「原」の意味はoriginal。「先」はこの前、今はそうではないという意味です。台湾の原住民諸族たち今までにも台湾で生きていますから、台湾で「先住民族と言ったらチャイニーズ中心に差別的なニュアンスがあります」)の中に9民族を中心なテーマパックです。(追記、現時点台湾で承認された原住民族は16種類があります)
色々な民族があったら、言語にもバラバラで、小さいからずっと部落に住んでいたしか原住民族のことばを話せる事態です。

台湾には多文化共生な社会であります。様々な言語で話せて、speaking languageだけ文字がない言語にもあります。
台湾である日本統治時代から、台湾の「国語」は日本語で設定して、戦敗後中国から「国民政府」が台湾に来てから「国語」は中国語になります。今までの「国語」にも中国語です。
玉木おばあさんが生まれた時代は台湾である日本統治時代です。国語は日本語でしたけれど、日清戦争始まる前に、日本語教育は強制的にではありません。
民間的に自分が慣れて言語で話せているのは普通でしたから、玉木おばあさんの母国語は「台湾語」と呼ばれ、中国語方言の一つ「閩南語」です。
玉木家は戦敗後もう一度八重山に戻ってから、玉木おばあさんは現時点の「国語」としての中国語はもちろん理解できない状態です。

映画の話を戻って、あのシーンは玉木家「九族文化村」テーマパックに行って、原住民族の踊りを観ます。
テーマパックであるアナウンスは「国語」としての中国語であり、パフォーマンスは原住民族の言語で唄います、もちろん台湾語と日本語しか話せる玉木おばあさんは聴いても全く理解できないです。

 

終わりに

なぜなら私と慎吾さん似てますと、
私は二十歳までにずっとおばあさんと住んでいて、おばあさんが育ちました。
うちのおばあさんは「日本語世代」と呼ばれ、おばあさんは日常会話レベルの日本語を聴いて理解できますし毎日ラジオを聴いた歌は日本語で演歌と台湾語しかないです。
うちの家族は台北である台北人なら必ず知ってる昭和風日本食堂を運営しています。
私初めて学んだ言語は台湾語です。
でも幼稚園に入ってから私以外の人たちはすべて「国語」を話して、あの時から「国語」は私の母国語になりました。
台湾語を使えるチャンスは家に帰って、おばあさんと話すしたありませんでした。
私とっての「台湾語」は中国語方言の「閩南語」かつ日本語の単語でした。
日本統治時代前に台湾でないモノはそのまま日本語の発音で呼びます。
そして、うちはもっとレベルアップして、「いただきます」や「おやすみ」などにもそのまま「私の台湾語」になりました。
小学二年生から六年生まで、私はおばあさんと一緒に寝っていました。
あの時毎晩は私の日本語教室でした。簡単な単語と童謡なとしかなかったけど、毎日演歌を聞くのは事実です。
偶に知りたい日本語単語があって、おばあさんは答えないケースが多いでした。
理由は私の妹は「国語」のみ話せますので、おばあさんの「中国語教室」が始まりました。
ということで、おばあさんの頭の中に台湾語、日本語と中国語を混ぜていて、あの頃から台湾語でおばあさんに日本語を聞いたいと言っても、もらった返事は中国語になりました。

日本語は私の「第二外国語」でしたが(第一はもちろん英語です)、私にとって日本語は「外国語」ではありません。
私のおばあさんの言語でした。
おばあさんがトントン忘れていた言語でした。

 

海の彼方|OAFF2017|特別招待作品部門

Formosan!「台湾」という島で暮らし(2/3)

yuchieh.hatenablog.com

 

台湾には大日本帝国最初の植民地であった。

中国清朝政府は台湾に対して態度が一瞬に変わったきっかけは1874年である牡丹社事件(こちらは清朝側の言い方。日本側は台湾出兵征台の役、もしくは台湾事件で認識しています)

私の理解は、あの時の沖縄は日本薩摩による支配して、中国清朝が朝貢関係の属国としてお互い保護する琉球王国でした。

宮古島の人たちが首里に行って年貢を輸送した後、帰途になんが暴風で遭難して台湾南部に漂着しました。でもなかなか宮古島の人たちと台湾の原住民パイワン族と言語通じないし、色々あった結局、54名遭難者たちは斬首されました。(日本語で「宮古島島民遭難事件」と言います。)

宮古島の人たちが首里に行くのは琉球王国内部の話ですよね?

日本側は「我が国が保護している琉球王国の国民は(言語通じない理由で)「外国人」が殺されましたから」、そして、あの中国清朝政府は「生番」は「化外之民」であると言ってから日本側は「じゃ、台湾へ出兵しよう!」の思いがあった……

この「台湾出兵」(台湾なら「牡丹社事件」と言います)は日本軍が初めて海外派兵そうです。

もう一つ注目されるところは、琉球王国は中国清朝政府と「日本とお互い保護する」国から、なかなか日本側の方は琉球王国の保護者を気になっています。もし琉球王国は「お互い保護し」なら、中国清朝見守ている琉球王国の国民は中国清朝統治している台湾で殺されて、順番と言えば、日本政府行動する前に中国清朝もう何がやっていたにはおかしくないでしょうか。

なんが台湾と日本の関係は想像以上深いです……

 

そして、台湾は中国大陸「福建省台湾府」から「台湾省」にLEVEL UPしました。おめでとう!?

台湾は「省」になるだけ、特に祝賀が必要ないと思います。

最初の台湾「巡撫」(省長相当)劉銘傳さんはちょうど明治維新の中国バージョン「洋務運動」の推進者でした。そのきっかけに台湾でたくさんインフラ整備を始めました!(これからようやく始まります!!)

「消極」の逆には「積極」ですが、私は「これからようやく中国清朝政府が積極的に台湾を運営したい」と言いたくないです。

そうなに積極的ではなく、「自発的に」ではありませんでした。

劉銘傳さん以降の台湾巡撫さんは彼らような積極的なやる気がないし、実際に「台湾省」はただ十年間だけですよ。

 

1894年日清戰爭(台湾側は「甲午戰爭」と言います。First Sino-Japanese War)があって、次年<日清講和条約>、もしくは<下関条約>(台湾側は<馬關條約>と言います)より、台湾の主権は日本になりました。

正しく言いますと、「台湾と澎湖諸島など付属諸島嶼」です。現在「台湾」と言ったらの範囲は台湾本島だけではなく、澎湖諸島など付属諸島嶼にも「台湾」主権があるところです。この記事のテーマは<台湾という島で暮らし>ですから、この前あんまり他の島と書きませんでした。)

 

台湾は日本最初の植民地であってから、1895-1950ちょうど50年間に一番長い時間が支配した日本植民地でありました。

 

実は私、中国語で言ったらあんまり「植民」という単語を使わないです。

私はいつも「台湾である日本統治時代」と言って、「植民地」や「植民政府」などの単語は利用しないでも、言いたいことが他の方法で説明することが可能です。「中国語で」言ったらね!日本語で話したらなかなか難しいです。

理由の一つは、「植民地主義」(Colonialism)産業革命(Industrial Revolution)から第二次世界大戦までのあの時代に、社会の中である雰囲気ですよ。

強い欧米「列強」はこうやって、誰にも負けたくない、誰にももっと強くなりたい。

現在の社会でもそうなんですけど、現在の人たちは人権関する意識が高くなりますから、「植民地主義」(Colonialism)ということは、これからもう一度発生することはなかなかあり得ないと思います。

 

歴史はもう発生した物事です。時間がかかって、歴史にも自分のことを自分で話せる。

(台湾はそうなんですが、日本なら左翼と右翼二つのグループの勢力は強すぎて同じ事件が両方から聞いたら、全く違うものになりました……なんでやねん)

日本元植民地である台湾出身の私、現在の日本に言いたいのは

歴史はもう発生しましたから、今の私たちがもう発生した歴史事件を消滅できません。

「ですから、大事なのはすべてのこと伝いてください。すべての立場を一言一言で伝いてください。」

すべてのこときちんと伝ったら、最後の判断は個人に戻って、自分自身信じることを信じて、自分で評価します。

 ということです。

 

1895年、もちろん日本の「植民地」になる「事実」は信じたくない、そうなりたくない台湾人がいます。

当時の官僚と一部住民(特に地方の名望家たち)は台湾民主国という国を立って、日本政府と抵抗したいけど、まあまあ当時の官僚ですからね、官僚たちは死にたくないなので、必死に逃亡していました。

この国はただ5カ月間で終わりました。私はとって特に重要な意味はたぶん、今まで「THE ONLY ONE」これしかない台湾という名前を使って、国旗もありますし、私たちの国を立っていたかもしれません。

あの時本気で必死に日本政府と抵抗しているのは民間の人と「原住民族」たちと思います。

ただ、すべての人はそうではありません。

地元で住民と日本軍隊両方が衝突してみたくないから、平和のために日本政府を歓迎している地方の名望家にはあります。

 

日本統治時代の台湾は日本と同じ国でありました。

同じ国、国語にも同じ日本語ですけど、差別化があります。格差社会でした。(social stratification

内地(第二次大戦前,海外の植民地を「外地」と称したのに対して日本本国の土地)からの日本人人数はたぶん一番少しないけど、もちろんトップな社会階層である、続いては「漢人」たち、最後は「原住民族」でした。

 

一つの例は現代語で言ったらの「小学校」です。

日本人行ったのは「尋常小学校」でした。でも台湾人行ったのは「公学校」、「原住民族」行ったのは「蕃人公学校」でした。(その後日本語がネイティブ程度の台湾人は「尋常小学校」に入れますけど、日本語はそうなに上手いこともたちは少しないでした。)

その後政令を修正して、すべて「国民学校」と呼ばれましたが、元「尋常小学校」の小学校は日本人の比例は多い、元「公学校」に日本人にも行かない状態でした。

私は卒業した<台北西門小学校>は元「尋常小学校」でした。旧名は<台北第五/城西/壽尋常小学校>でした。私は今までにも覚えるのは小学校一年生から先生は「以前ここは日本人しか入れない尋常小学校でしたよ!」と言いました。

あの時代台湾人は進学したいにもなかなか難しいでした。

家庭は一つの理由(台湾人の就学率は日本人より下でした)、もう一つは台湾人向けの高等教育機関は少しないでした。多く台湾人は師範学校へ進学して、師範学校から卒業後小学校先生になるケースが多いです。

 

今は教育の話ですが、台湾である現代教育体制は日本政府立てましたから、今まで残り影響はすごいです。例えば、制服と体育服の模様(帽子もありますよ!)や掃除時間があって、掃除方法も同じなどなど。

さらに、日本統治時代から立っていた高校と大学は長い時間経っていてもトップな学校です。大学は一箇所のみ、旧台北帝国大学は現在の台湾大学です。(あの時台湾にも帝国大学がありますよ!)

高校の部分は面白いです。あの時の高校は必ず男女分かって、男性は高等学校へ、女性は女子高校へ行きました。一つの都市は(台北以外)一つの高等学校と女子高等学校です。学校の名前はそのままで都市名を使っています。ですから、現在の台湾で一番人気な高校にはほとんど(例外は一つのみ)日本統治時代から立っていた高校です。

私は台北中山女子高校出身です。旧名は<台北第三女子高校>でした。<台北第三女子高校>は日本統治時代に台湾全国ここしかない台湾の女の子が入れる女子高校でした。そして、私の卒業先<壽尋常小学校>と<台北第三女子高校>は以前隣になった期間がありますし、台北市内の博物館にある日本統治時代の地図はこの二つの学校は隣にあることもう二枚見つけました。笑。

はい、以上です。テーマに戻ります。

 

教育以外に、公衆衛生、交通と水利事業などのインフラ整備は(理由を問わず)日本政府は本当によくやっていました。

「こちらの部分」は台湾人誰にもあの時の日本政府に感謝していると思います。

ただ、「内地」と「外地」の差別化は政治的に作られて、ややこしいな。

 

インフラ整備のほかに、警察制度にもこの時直接導入しました。(警察官はもちろん日本人です。ただ、映画<セデック・バレ>に原住民族の警察にある二人は「親は先住民、生まれたから日本名を付けて、日本人として教育された」役者がいます)

台湾語でみんな尊敬している社会階層は高い人は「大人(ダイニン)」と呼ばれます。

警察(けいさつ)は台湾語で必ず「警察大人(ギンッツァダイニン)」と呼ばれ、もう一つ職業の最後に「大人(ダイニン)」を付けたのは医者さんです。

日本統治時代前に西洋医療は宣教師から導入されましたが、台湾人が医者になれる進学制度は日本統治時代から始まります。他の看護師や助産師など現代医療について仕事や制度整備にも同じ時期に導入されました。

実際には学校に行って教育を受けた台湾人の人数は少しないですけど、教育を受けた台湾人はほぼ教員もしくは医者さんになります。理由の一つは現代医療はあの時「台湾人が選択られる」選択肢でした。

この原因で、台湾人にとって医者さんは頭がいいし、すごく偉い人です。毎年恒例の台湾大学入試センター試験に点数が一番高いのは医学部しかない状態です。

 

台湾の日本統治時代は三つの段階があります。

初期(1895-1915)は軍隊で強硬な統治政策を打ち出します。

そのあと第一次世界大戦が終わって、民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、同化政策(=台湾民衆を完全な日本国民として)を推進する内地延長主義時期(1915-1937)です。「同化政策」は「台湾民衆を完全な日本国民として」と言ったけど、実際に台湾人と日本人は社会構造的に違いますよ。法律や制度など、台湾の場合は何でも「内地」と違いますし、日本政府は本気にやるではありません。

最後は1937年に日中戦争があってからの皇民化運動(1937-1945)でした。

この八年はちょうど日中戦争と太平洋戦争(第二次世界大戦)の間に、この時日本政府はこれから長引く戦争のせいで台湾人の国民意識を上がりたい、日本「内地」だけの力は無理ですから、台湾での戦時体制でした。

 

こちらに急に入りたいのは「日・韓・台」にとってどちらでも辛く翻弄された話です。

台湾は日清戰爭から日本の植民地になって(1985-1945)ちょうど50年間であり、朝鮮(現在の大韓民国と北朝鮮併せて)の日本植民地時代(韓国ですから、ここに「植民地時代」を使います)は1910から35年間です。

日本、台湾、韓国は同じ国でしたから、共同の思い出を持ち、上下一心「大日本帝国」のために精一杯やりました。

海外出征の軍人はほとんど日本人の男の子ですが、植民地の私たちできることもあります。

これは国家のあらゆる物的・人的資源を最大限に動員し、活用する「国家総力戦体制」です。

例えば台湾の原住民族たち山で作戦するのは日本人より強いなんで、高砂義勇軍と呼ばれるのはあの時日本軍隊の一部である東南アジアへ作戦する台湾の原住民族たちでした。

特に第二次世界大戦後半活発している期間に、多くの若い日本人男の子はほとんど出征するので、逆に内地での労働力不足なんで、植民地の中で一番近いの朝鮮からたくさん労働者たちが日本内地へ大量の移動が始まりました。

ところで基本的に工場で働き、住むところにも工場周りの町なんで、今までまだ日本に暮らしの「在日」たちやコリアタウンの成因の一つであります。

 

挺身隊あの時朝鮮で朝鮮人自発的に「国家のために」何ができれば力を合わせたいボランティア団体です。「挺身隊」の種類が色々ありますし、例えば「農村挺身隊」や医師と看護婦の「仁術報国挺身隊」など。そして、この「挺身隊」の中に現時点よく知られるのは「朝鮮女子勤勞挺身隊」または「半島女子勤労挺身隊」かもしれません。

元々工場などでの勤労労働に従事する「女子挺身隊」は元慰安婦の証言から人身売買詐欺の名目に使われていたので、現在の日本と韓国は女子勤労挺身隊を「慰安婦」混同がなされているケースが多いです。

 

実は台湾人の私、最近どんどん韓国のことが羨ましい気になっています。

理由は日本人の目から韓国のことをよく見えます、全体的に韓国のことを知ります。

でも同じ元植民地としての台湾に対する、おばあさんたちとおじいさんたちのみ台湾のことを知っている気がします。

台湾にも元慰安婦おばあさんがいらっしゃいます。元慰安婦おばあさんの中に朝鮮籍の比率は一番多いですが、台湾籍、日本籍、中国籍、フィリピン籍、インドネシア籍やオランダ籍のおばあさんがいらっしゃいます。

 

第二次世界大戦まだ本格化の前に、慰安婦制度が立ち上がりました。

元々は内地での風俗街出身のお嬢さんでしたが、日本出身のお嬢さん人数は全く不足なんで、人身売買詐欺の名目で朝鮮や台湾など「日本語なかなか通じる」おばあさんたちは「海外へ」派遣されました。

ところで、「海外での日本軍たち」のために「海外の戦地へ」慰安所を立ち上がて、恥ずかしい歴史ですけど、なんとなく理解できますし、全世界は乱世中に他の国にも「慰安所」らしいところがありますが、「戦地」じゃない台湾本島にも「慰安所」を立ち上がて、一体どういうことですか?

他のところに慰安所がありますから、台湾には「戦地」じゃないけど軍人が多いので慰安所が必要でしたか。

 

慰安婦問題は日、韓だけの問題ではありません。2015年の「日韓合意」はなぜなら韓国だけと「合意」しましたか。

台湾人は日本の前に立ているのに、

なぜ日本人はあんまり台湾人のことを見えないだろう。。。

片思いっぽい寂しい。。。

 

関連記事:<日本人として戦った、ある台湾人の戦争>

www.nippon.com

 

「中華民国」に戻る?「中華民国」の時代が来た。

そして、1945年8月第二次世界大戦が終わりました。

日本政府は全ての植民地を放棄されて、でもそれぞれの植民地が「誰に返し」が言いませんでした。

アメリカは台湾のことがあの時の「中国」代表蔣介石さんに任せて、「誰に返す」まで決めてない前に「暫時的に」管理してくださいと言いました。ここからこの「中国代表の政府」を「国民政府」と呼ばれます。

私自身の理解には「沖縄県」である沖縄戦や沖縄県が米軍基地になるきっかけにも戦争前に一体沖縄は本当に日本政府に返す方がいいだろうか懸念があるので、1972年前に米軍が日本政府の代わり「暫時的」に沖縄を管理していたと思います。

 

一体、台湾人は第二次世界大戦に勝ったのか。負けたのか。

 

第二世界大戦に台湾という島に住んでいた人たちは本当にこ大日本帝国のために、「日本人として」一生懸命に頑張りました。この日本を負けました。

でも、日本政府の代わり台湾に来た「新しい政府」は「ようやく私たちは同じ中華民国になりました。台湾にいるみなさんお待たせしました。ようこそ!これから私たちは第二次世界大戦に勝った中華民国です!」の姿勢を見せて、

台湾にも本当に勝ちましたのか。

 

この時の台湾人たちの心の中に、自分自身のアイデンティティがすごく揺れている。

 

植民地の制限から「解放されて」「祖国の胸に」自由になると思った台湾人たち、最初にも「ようやくチャイニーズたちと同じ国」になることがすごく喜んでいましたが、

日本統治時代の五十年間に台湾という島であるインフラや現代化モノ(有形のものや無形のコンセプトなど)は中国大陸であるのより、先進過ぎて、現代医療、公衆衛生、礼儀など日本からの影響を受けて少しずつ中国大陸に住んでいるチャイニーズとの価値観の違いがトントン現れました。

 

戦後、勝った国や負けた国どちらにも国内に色々な問題が出ていて、

例えば、あの時の「メインランドチャイナ」に中国共産党と先出ていた「中華民国代表」もしくは「国民政府代表」蔣介石さんの中国国民党(中国国民党の政治立場は反極端な共産。私自身の理解はそんなに右翼ではない左翼ではないの混合形と思っています)がマインランドチャイナに闘っていました。

台湾には戦場じゃないけど、インフレが起きて生活が辛いし、新しくて来た国民政府の人たちと言語通じないし、

ちょっと待って!言語が通じない?!どういうこと?!

 

「国語」(national languages)はそれぞれの国に国家を代表する言語であるものです。

例えば日本は日本語、アメリカやシンガポールは英語。でもインドのような一つの国に二つ以上の「国語」を設定することは珍しくありません。(インドの国語は13種類です)

台湾という島で、初めての「国語」は1937に制定された日本語でした。そして1946から私たちの「国語」は中国で「普通語」(プートンファー)と呼ばれ、日本語で「北京語」と呼ばれmandarin Chineseです。台湾では必ず「國語」(クォユー)と呼ばれます。他の名前(例えば「普通語」や「北京語」)を聞いたら意味だいたいわかりますけど違和感あります。

 

「国語」を制定すること、台湾のケースを見ますと、歴史と政治的なものです。

制定された「国語」は有権者たちの言語でした。人数比率で見ますと、制定された「国語」どちらでも当時トップな喋られる言語ではありません。

 

日本統治時代の台湾、特に1937年から日本語は「国語」になって、家に家族全員と日本語で日常会話できる家庭は「国語家庭」と承認されました。ですけど、全体的に全ての人が日本語でペラペラ話せるのはそうなに簡単ではありません。

学校に行きませんと、家で両親と「母国語」で喋りますから。

 

この記事最初に書いたとおり、「台湾のの歴史は長くではありません」。

チャイニーズ系(中華系)漢民族が台湾にいっぱい来たのは17世紀からでした。でも台湾は中国大陸対して南であり、台湾に来たの人たちにも南方の人なんで、「母国語」は現在「中国の方言」閩南語や客家語です。

日本語で「北京語」(中国語で「普通語」)の言語は北方のことばです。声調は南方のより少しありません。文字は同じですけど(この時中国の簡体字はまだ創造されません。)、わかりやすく説明は例えば仮名で沖縄方言を書けますけど、東京人にこんな文章をもらって、一つずつの仮名を発音が知っていますけど、文章全体的な意味がわかりません。

中国である色々な方言にもこんな感じです。文字は一つずつ発音が知ってますけど、文章全体的な意味がわかりません。そして、同じ漢字それぞれの方言での発音は違います。

 

テーマを戻ります。

日本統治時代終わって、新しい「国語」になった「国語」(つまり日本語での「北京語」又は中国人の「普通語」)は元々台湾人全然知らない、話せないことばです。

 

最悪なのは、日本統治時代におよそ日本政府が来た40年後から日本語のみ強請されましたが、中国の「国民政府」が台湾に「管理される」最初から日本語禁止以外に、出掛けする際に「母国語」も禁止され、「国語のみ」強請されました。

 

ことば以外、もう一つ政治的に in purpose な変更は紀年法です。

西洋な時間観念を台湾に導入されはタイミングは日本統治時代であり、この前台湾人の時間観念は干支でした。(一時辰は2時間、一刻は十五分)

日本は明治維新以降、西洋の「一日は24時間、一時間は60分、一分は60秒」の六十進法と太陽暦を導入されました。

まあまあ日本統治時代の台湾でウェスタンなキリスト紀元じゃなくて「明治」、「大正」と「昭和」を使っていましたが、私にとってあんまり違和感がないけど、中国の「国民政府」が台湾に来た際に紀元は「中華民国」になりました。

「中華民国元年」(略称:民国元年)は1911年。台湾には「まだunder Japan’s occupation」でした。

 

こんの「中華民国元年」は、ほんま台湾の「元年」ですか。

一応今台湾で「中華民国」の紀年法は、学校の学年暦と生年月日書く際に使います。キリスト紀元よりあんまり使いません。

 

続く。。。

Formosan!「台湾」という島で暮らし(1/3)

初めまして、こんにちは!台湾で生まれて、日本教育を受けて生きていた「日本語世代三代目」のカオリです。

本名は「張」(チャン)ですが、いつも「石川カオリ」というペンネームで活動しています。

このサイトである記事もカオリの名前で活動すると思っています。

この記事は<あなたの話、自分で話せよ>の第一号でした!!どうぞ、よろしくお願いします!

 

前言

さて、今回のテーマは日本語で台湾の歴史を伝いたいです。

台湾は小さい島国ですが(ただ日本全体面積の十分之一です)、でも同じ台湾で暮らしの人たちにとって、世代別や世帯別などいろんなせいで、様々な「台湾」についての想像やアイデンティティなど持っています。

このきっかけに、同じ台湾で暮らしの「台湾人」たち見た「台湾」は違いますと、

じゃあ、他の国のたち見た台湾はどうな国だろう?

そして、国別で同じところを見れば、気になる点にも違うだろう?

 

「自分の話、他人より」自分で話たら、正しいだろう?

同じこのところに住んでいる人々の口から言った話は違うでもいいし、大事なのは「自分の話、自分で言う」ことです。

 

このアイデアを考えて、今回私が見た台湾、

こんな私だからこそ見て知っていた台湾、皆様と共有したいと思っています。

 

多様な文化共生している「FORMOSAタイワン」

台湾の歴史は長くではありません。ちょっと待ってください、「歴史は長くではありません」ってどういうこと?!

単純に「文字で記録がある」「台湾この島について」の歴史的な資料で見ますと、台湾の歴史は長くではありません。日本の江戸時代からおよそ400年ですよ!

ええと、じゃ400年前の台湾には豊かな自然環境でしたか。私は今までの台湾にも自然が豊かな島国と思っています。笑

 

台湾には色んな「原住民族」で暮らしの島です。今までも。現在まだ台湾で暮らしの「原住民諸族」は確認してたのは16種類以上があります。細く見ますと、それぞれの文化や言語など全く違います。

でも、マクロ的に太平洋である島やインド洋であるマダガスカルまでのネイティブは使った言語は似てますし、今は「南島語系(Austronesian languages)」、もしくは「南島語族」と呼ばれます。

ところで、言語学から見ますと、「南島語族」分部の範囲内、台湾という島は言語のダイバーシティ(=多様性)は一番すごいところであり、さらに台湾は「南島語族」分部の一番北であるところで、海流に沿くて他の島へ移動することができますし、台湾は「南島語族」の源流と呼ばれる人が多いです。[1] 私自身にもそう信じています。

台湾には昔から色んな文化があって、平和に自然と共生しているオアシスです。

 

ここまで、いつも「原住民諸族」で言いますが、日本語で言ったら「先住民諸族」の方がいいと思います。

でも私は「先住民」で言いたくありません。

理由は台湾の「原住民諸族」たち昔から今までにもずっと台湾で生きています。

「原」の意味はoriginal、元々、「原本」、根本です。

「先」はin the past、以前、時間的に前という意味ですが、今はそうではない状態です。

 でも、台湾の「原住民諸族」は昔から今までずっと台湾で暮らしなので、「先」ではなく、「原」ですよ!

日本人はなぜなら「原住民」は差別的な単語と思ったのが私は知りません。でも台湾で「原住民諸族」に「先住民」と言ったら、大変失礼です。><

ですから、私は日本語で言っても必ず「原住民(諸)族」と言います。(これからは偶に概括的な「原住民族」で「原住民諸族」として説明します)

 

15世紀中ばから17世紀中までにはユーロッパによる植民地主義的な海外進出しました。

この時代は「大航海時代」もしくは「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)と呼ばれています。

ポルトガル人は海から「今台湾という島」を見て、台湾の風光明媚な自然をすごく感動してポルトガル語で「Ilha Formosa」と言いました。Ilhaは「島」、Formosaは「美しい」という意味です。このきっかけに、「Formosa」には台湾この島の名前になりました。

今ネットで「Formosa」を検索したら、出た資料にもほとんど台湾のことです。

 

「美しい島」のご褒美を聞いて、美しい島で生きている人たちにとってもちろん自慢です。

「Formosa」は台湾人なら必ず知ってるポルトガル語です。広告やブランド名など今でもよく使ています。ですけど、私は中学校の先生から全く違う見解を聞いて、

「あの時なぜポルトガル人はIlha Formosaと言ったのが?」

「台湾にはあの時Ilha Formosaと呼ばれる島のみではありません。」

「ポルトガル人がIlha Formosa言った理由は『もしこんな美しい島が自分の植民地になったら、いいな!』でした。」

 この時から、私には「Formosa」のことが嫌いになりました。

 

こんな私、台湾の公式観光広告以外、久しぶりに「Formosan」と出会ったのは<八重山の台湾人>という本にでした。

1970年代石垣島に暮らしの台湾移民たちに、中学生の山内得義さんが「石垣島に暮らしの台湾移民たち」について<The immigrant and citizenship>[2] がテーマをとして、読売新聞社と日本学生協会(JNSA)基金共催する第二十二回<高松宮杯全日本中学校英語弁論大会>に第二位になりました。彼のスクリプトを読みますと、「台湾人」の英語表記は今使っている「Taiwanese」ではなく、すべて「Formosan」と言いました。

まさか久しぶりに「Formosan」と出会いところは日本人書いた本に。そして、あの時の山内さんは本当にすごいと思って、この記事の日本語バージョンのタイトルは「Formosan!」付きてた理由です。

 

ここまで、今よく「台湾」という名前で認識しているこの島、「タイワン」ではありません。

「Formosan」という名前にも他の人が「この島の存在」が発見して、付く名前です。

でもこの島に昔々から、ここで暮らしの人間がいます。

大事なのは、ここで暮らしの人にとって、「このところの名前」は何か?

 

もし、とらえもんからタイムマシーンを貸して、400年前の台湾にもとって、400年前このところの名前は何か?

もし400年前の台湾にもとって、すべての「原住民族」の「部落」(台湾で「部落」という意味は「原住民族」住む町です。差別的な意味特にないです)に訪ねて、このところの名前は何だと聞いたら、たぶん全体的な「我々は同じの島でくらし」という認識がないと思います。

それぞれの「原住民族」は言語にはあんまり通じないし、同じ「原住民族」なら、他の「部落」と交流する機会がありますけど、他の「原住民族」と交流することはなかなか難しいかもしれません。

 

大事なのは、ここで暮らしの人にとって、「このところの名前」は何か?

ですから、今ここに住んでいる人にとって、私たちは台湾人。私たちが住んでいるところは「台湾」という島です。それはもう十分と思います。

 

文字記録がある台湾歴史400年、ここから始まる

ポルトガル人は有名な「Ilha Formosa」単語を残した後、そのままこの島を通り過ぎました。ユーロッパ人たちが東アジアへ来るきっかけに、「文字記録がある台湾歴史」は始まりました。

 

ポルトガル人通り過ぎる後、続いて台湾に来たユーロッパ人はオランダ人(1624-1662)とスペイン人(1626-1642)でした。オランダ人は南台湾で、スペイン人は北台湾でいました。

あの時ポルトガル人マカオで、中国へ行くのはとっても便利でした。

オランダ人(オランダ東インド会社、The Dutch East India Company)の中心はインドネシアのジャワ島で、スペイン人の拠点はフィリピンのルソン島でした。オランダ人やスペイン人はポルトガル人より東アジアに来た時点は遅いので、中国とちょっと離れる島しかない状態です。

 

スペイン人は元々日本人と交流したいなので、北台湾から日本へ行くのはフィリピンよりなかなか便利でしたが、先言ったとおり、今は日本の江戸時代ですよ!鎖国体制にオランダ人のみ日本人と貿易ができますし、「蘭学」にもこの背景に欧米諸国「先進的な」学問や技術などとんとん日本に伝入しました。

 

ところで、日本人と交流したいスペイン人たちは鎖国のせいで、何にもできない状態で、台湾からフィリピンに「戻りました」。

あの時代の歴史は悲しい。。。フィリピンは元々スペイン人住む所ではない、でもここで「戻った」と書いています。

 

この時の台湾、オランダ人とスペイン人から連れてきた物事は洋風建築以外(なんが台湾である西洋館の見た目は日本の旧居留地である異人館のスタイルは違います。たぶん台湾に来たのは商売人ではなくただ会社の名前付き、実際には政治的な植民政府でした。)

宗教(オランダ人はキリスト教、Christianity;スペイン人はカトリシズム、Catholicism)、「新しい種物」(例えば、トマト、えんどう)、牛に農業生産に導入すること西拉雅族(もしくはシラヤ族。南台湾で暮らし「原住民族」の一つ)の言葉がローマ字で文字記録可能しました。(アルファベットでシラヤ族の言葉を記録した文章は新港文書という。新港文書現時点はもう死語化になりました。)

 

特に注目される点は

確かにあの時オランダ人とスペイン人が台湾に来ましたが、オランダ人やスペイン人の拠点は台湾全島ではなくて、飛び地(enclave and exclave)らしい形でこちら、そちら、あちらは「オランダ人と友好」な「原住民族部落」、でも全体的に台湾全島はunder オランダ人のoccupationではありません。

 

簡単にまとめて、台湾にとってこの時期は非常に重要なターニングポイントでした。

  1. 「台湾」という島の名前はこの時期からです。
  2. 台湾で初めての「政権」はオランダ人が立ちました。
  3. 重商主義により、本来原住民族たちが自給自足的な農業、漁労中心の経済活動は本格的な商業を発生しました。
  4. 労働力不足のために、オランダ人は中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」たちが募集していました。

 

今から台湾には「漢人」の世界だ。

この時期、東アジアの海にユーロッパ人以外、アジアン海賊にも多いです。

海賊の中に、台湾人がよく知ってるのは鄭芝龍さんです。彼はたくさん言語が話せるそうです。(ウィキペディアより中国語、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語が通じるそうです)彼の妻は日本人のこと、私は中学校と高校の歴史先生から聞いたことがあります。彼の言語能力はすごいなと思います。

私はいつも中国語の名前「鄭芝龍」でと呼びますが、この記事書くのためにネットでもう一度検索して、西洋の方は中国語名前より、「Nicholas Iquan(一官)」で表記する記事が多いです。日本語の記事にも偶々「ニコラス・一官」で記されることがあります。

 

でも鄭芝龍さん本人はなかなか台湾とあんまり関係ないですが、彼の息子と孫は台湾歴史に対して非常に重要でした。

 

あの時の中国はちょうど明朝が滅亡し、満州族の王朝である清が成立した。これに対して、多く明朝の皇族・遺臣たちは反清復明を掲げて南明朝を興し、清朝への反攻を繰り返しました。鄭芝龍さんの息子鄭成功さんは、清への反攻の拠点を確保するために台湾への進出を計画して、「台湾人の代わりに」東インド会社のオランダ人を台湾から駆逐することに成功しました。

今は「鄭氏政権」(1662-1683)と呼ばれる統治は台湾で初めての漢民族政権による統治でして、鄭氏一族による台湾統治は3代(鄭成功-鄭經―鄭克塽)23年間で終了した。

 

この時の台湾は

鄭成功東都と改名して、(でもその後鄭成功の息子鄭經さんは東寧(王国)」へもう一度改名しました。)鄭成功は武将の陳永華の建議を採用して、「漢民族」の中央集権的な官制制度、教育体制や明朝暦法など導入して、世界的に独立国として台湾独自の政権を打ち立て台湾の政治や経済発展など開発してから、鄭成功さんは今までも台湾社会に極めて高い地位を占めています。

 

結論を出しますと、この二十年間に「反清復明」の目標は失敗しました。「亡命政権」で言われる文献にもあります。でも「鄭氏政権」がオランダ人を台湾から駆逐して、そして台湾で最初な漢民族政権になりますし、この二つの点だけ、台湾の歴史認識は非常に有意義でした。

 

中国清朝が台湾の「鄭氏政権」を倒して台湾を編入したのは1683年。

台湾は中国の一部のは1683年から日清戦争終わりの1895年まで、「台湾歴史」に一番長い212年間でした。台湾ではよく「清朝統治時代」前期(1683-1873)と後期(1874-1895)分かれて、前期の台湾には中国大陸の福建省の「台湾府」。「省」より二番目の地方自治体でした。

この時の中国清朝政府は台湾のことあんまり治めていました。(全く統治したくない→台湾のことが編入する理由はただ台湾の鄭氏政権が清朝への反攻したいだけです。)

消極的に治め整える例は、

ちょっと前に言ったとおり、台湾にはいろいろな民族と一緒に暮らしの居場所です。「外国人」たちが来たり行ったりでも、台湾で住んでいた民族は全体的な「原住民族」は漢人より多いでした。(リマインダー:厳密に言いますと、「原住民族」は一つの民族ではありません。)この時期から、台湾で暮らしの民族の中に、中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」の人数は初めてトップになりました。

ですから、「外来」の「漢人」と「原住民族」たちどうやってこのところに一緒に生活しますか?これはポイントでした。

あの時「福建省台湾府」に対して非常に消極的な中国清朝は「原住民族」の生活域は化外の地(=中華文明に於いて文明の外の地方、中国文明の行き届かない地域)として、土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけて、昔から台湾で生活してた「原住民族」の生活域は清朝の統治範囲ではないと発言がありました。[3]

ここであの時中国清朝政府は管理のために簡単に台湾である「原住民族」は二つのグループに分けて、生番は「土牛溝」の奥に、ほば山に住んでいる「原住民族」たち、そして、元々活動範囲はあの時「土牛溝」近所からあの時「漢人が領有して」、漢人となかなか交流チャンスがあるから、そうなに「中華文明に於いて文明の外」ではない熟番)でした。(こちらの「熟」は日本語での「仲良く」という意味です)

現在の台湾には「熟番」と「生番」は言わないけど、(理由は中華文明や統治者を中心の差別化)あの時二つのグループを分かれて、「熟番」(今は平埔族群と言います)の「漢化程度」(=中華文明を受ける影響程度)はすごくて、今まで台湾である「平埔族群」たちは政府から承認している民族の数量は少しない状態です。

 

もう一つの例は、

「渡台禁令」という、中国沿岸の福建省と広東省から「漢人」が農業生産するために台湾へ移住したい際に、単身赴任ような、男のみ台湾へ移動することができました。あの時期の中国社会は人が多い過ぎて、農業生産の産量はすべての人に十分に食べられないし、中国沿岸の人が「海外へ」移住する選択したのは多いでした。

今東南アジアで(フィリピン、マレーシア、インドネシアなど)「中華系移民社会」にはこの時点から移動していました。(正しく言えば、中国明朝からです。清朝にはそのまま続けています。)

問題には、中国沿岸から台湾への道は危険です。生きていて台湾へ着いたの人は半分以下と思って、そうなに危険でも、あの時の人たちにも必死に海を渡しました。

「渡台禁令」のせいで男のみ台湾へ移住しますと、台湾の社会構造はものすごくおかしいでした。若い男の人数は普通とはるかに超えました!!!

このせいで、あの時の台湾にたくさん社会問題がありました。

 

二回のアヘン戦争(1840と1842 Opium War, First Anglo-Chinese War)後、中国清朝政府は急に「まさか欧米列強は我が国の土地興味があるの」を気づいて、遂にベトナムが領有していたフランスとベトナム阮朝の宗主国である中国清朝はベトナム問題についての「清仏戦争」(中国語で「中法戰爭」)、ベトナム語で「Chiến tranh Pháp-Thanh」もしくはベトナム漢字で「戰争法清」、フランス語でGuerre franco-chinoise)がありました。

なんが、「清仏戦争」にあの時中国清朝政府管理している台湾にも戦場になりました!

この以外にも色々な戦争や欧米列強から中国清朝政府にのプレッシャーがあって、とりあえず、欧米列強の人たちは台湾で旅行、商売や伝教などできますし、台湾にも四つの港を世界に開港しました。

 

続く。。。

 

yuchieh.hatenablog.com

 

続きを読む